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『名前ちゃんって無個性なの?』
小学生の頃だったと思う。個性を使うことは法律で禁止されていて、教室で個性を使えば先生に怒られる。クラスメイトとの喧嘩で個性がつい発現してしまうことも茶飯事で、自慢話には絶対、自分自身の個性について語られる。大抵、まあ名前と出久には関係ないよな、だって無個性だもんなと、そんな言葉で締めくくられていた。そんな頃だ。
『名前ちゃんも出久くんも、かわいそうだね』
友達と遊んでいた。いたって普通に、校庭で、遊んでいただけだったのに。
その子は人よりも少しだけ足の速い子だった。誰も、彼女には追い付けなかった。
『お母さんが言ってたよ。個性は、生まれてきてくれてありがとうっていう、かみさまからのプレゼントなんだよって』
かわいそうだね、ともう一度言った彼女に初めて、無個性がどんなものなのかを知った。それでも、無個性であり続けた。出久と同じであるならば、それでいいと思っていた。
――仮令、出久に個性が発現したとしても。
* * *
ヒーロー科にいる緑谷出久の兄妹は、無個性らしい。
朝の時点で告げた言葉は、そんな風に瞬く間に広がった。タイミングが悪かったのだ。入学初日の時に比べ、今は体育祭で双子の出久が活躍したこともあり、その片割れが実は無個性だったなどという意外性が噂を広めていく一因となっていた。C組はもちろんのこと、移動教室ですれ違った時に感じる視線はそういうことなのだろう。
無個性だからと言って、生活が変わるわけではない。現にいつもの三人は変わらずにグループに入れてくれているし、クラスメイトとの仲が悪くなったわけではない。けれど、無個性だという情報が、彼らの中で大部分を占めている感覚は会話の節々にあった。有個性が当たり前となってから、個性は自分自身を象徴するものの一つだ。例えば髪色や瞳の色、肌の色やその他身体的特徴のような生まれ持ったものの一つに、個性がある。容姿の美醜が評価されるように、個性もまた、他人に評価される一つになっているのだ。
――無個性を出来損ないだと、笑っていた彼のように、そういう人も、いるのだ。
少しだけ、目を伏せた。もし、出久が何か言われるようなことがあったらと考えたら、無個性だといったのは軽率だったかもしれない。あの瞬間は、自分自身の中にあった個性に対する反発心で、いっぱいだったのだ。
放課後に駅前のカラオケで終わらなかった課題に付き合っていれば、気付けば七時も近くなっていた。それなりに全員が家まで距離があるため、ごねる柚希を笑いながら、また明日と手を振りながら改札を抜けた。
同じ方向で帰る友達もおらず、落ち着かない気持ちを紛らわせるためにホームで携帯をいじりながら電車を待つ。帰宅ラッシュの時間のため、あと五分もしないうちに電車が来るだろう。
家に帰れば、もしかしたら、その噂を聞いた出久から、何か言われるかもしれない。――名前には、個性はいらないものなのだ。だからこそ、今更緑谷名前が無個性なのだと広まったところで、大した障害ではない。出久に迷惑が掛からなければ、無関心でいられる。
画面のロックを解除し、届いたメッセージに返信して、アプリから適当な曲を選ぶ。
そういえば、昔は曲の好みも似ていたな、などと思いながら、ジャックに端子を接続し、イヤホンを耳に宛がった。
――刹那、首を絞められたように、息が喉元で詰まった。
「――っ」
背筋が凍るという感覚を、初めて感じた。いきおい振り向いたところで、人だかりが蠢いているだけだ。
――脂汗が、背中を伝う。自然と上がる呼吸。ホームの最前列にいた彼女の背を、押される――。
「電車が参ります、黄色い線の内側に下がって――」
ホームに滑り込む車両のブレーキ音。吹き込んだ風に、髪が靡いた。
つけそびれたイヤホンが手元から落ちる。カツン、とその高い音で、我に返った。
ホームドアが開いた途端に降りる乗客の波にのまれる。まるで挟まれるように後方から乗客に押し込まれ、車内へと追いやられる。定刻通り発車した電車は、冷房が効きすぎていて、鳥肌がたった。
(……なに、いまの)
殺されるかと、思った。殺される瞬間を感じた。ホームから突き飛ばされて、線路に飛び込む感覚を味わった。
指先が震えていた。その手を、コードごと握りしめる。気を抜いたら、このまま座り込んで、動けなくなりそうだった。
ガタンと電車が揺れる。覚束ない足元では踏ん張れず、隣に立っていた誰かの背中に思い切り肩を打ち付けた。零された不満と睨む視線に謝ろうとする唇は凍り付いていて動かなかった。からからに乾いた唇から、細い呼吸だけが漏れている。
――そこからどうやって帰ったのか、覚えていなかった。気づいたら自宅の玄関でへたり込んでいて、出久がなかなか姿を現さない名前を不思議がって覗きに来たことで、ようやくはっきりと意識を覚ましたのだ。
彼はリビングのソファに深く腰を掛けながら呆然としていた彼女に、ココアの入った白いマグカップを差し出した。白の縁の中で揺れている黒い水面に、疲れ切った名前の顔が映っている。当然のように、何があったのかと問うてきた出久に、何も話すことができなかったのは、これまでの気まずさやそんなことからではなく、ただ単純に、頭の中に一切の言葉が浮かんでこなかったのだ。
あれを、俗に殺気というのだろう。誰彼の纏う空気はあの場で、確実に名前を突き飛ばしたがっていた。電車にはねられ、ホームを濡らす血しぶきに、線路に転がる肉塊までもを想起させるほどの生々しい殺意だった。
手のひらからずり落ちそうになったマグカップを、慌てて出久が掴む。ことりとテーブルに置かれたそれからは、もう湯気はたっていなかった。
「……名前」
ぱちんと、言葉が耳元で弾けた。見上げれば、隣に腰かけていた出久が目の前に立っている。
「……何が、あったんだ、名前」
少しばかり強い語調は、先程から無言を貫いていたからなのかもしれない。怒っているわけではないのだ。それはわかる。揺れている双眸は彼女に似ていて、戸惑っていた。
――怖かった。思い返せば今にも震えてしまうほどには、怖かった。怖い思いをしたのだと、彼に伝えればいいのだろうか。ホームで待っていたら、急に寒気がして、誰かに突き飛ばされそうなおもいをしたと、そういえばいいのだろうか。
いや、気のせいだったのだ。体育祭のあの日から、思い出してばかりだったから。だから、そんな悪い思考に呑まれてしまっただけなのだ。現に、彼女の体躯は健全に、こうして家に帰ってきている。
――ゆるく、首を振った。
「なんにも、なかった」
それは、嘘ではなかった。何ともなかった。何かをされたわけではないのだ。
出久をよけてコップを手に取り、すっかり冷えきったココアを飲み干す。甘さ控えめの、いつも彼が淹れてくれるインスタントのココアの味だった。
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