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なにもなかったと、そう言われて口を閉ざされたら何も聞くこともできない。
ココアを飲んだ後に、ありがとうと笑った彼女は早々に風呂に入って自室にこもって行った。風呂に入ったタイミングで帰ってきた母は、ただいまといつもなら笑いながらそういうのに、今日は険しい顔をして帰ってきた。
揃いも揃って何事かと思えば、その手には一枚の封筒が握りしめられていた。


「手紙?」
「……名前宛てなんだけど、差出人の名前がないのよ」


荷物を下げた母の手から半ば奪うようにその封筒をもらい、はさみで封を切る。
勝手に開けていいのかとこぼした母の言葉には返事をしなかった。嫌な予感しかなかった。


「……なんだろうこれ、記事?」


新聞をスクラップした小さな記事だけが、丁寧に織り込まれてはいっていた。明確なこの記事の掲載日時は分からないが、出久もこの事件はよく覚えていた。
――十年程前の、とある災害現場で活躍したヒーローだ。ヒーローが現場へ駆け付けた時間は早かったが、炎上し続けたマンションの損壊が酷く、うち二人の死亡者をだしてしまった事件。マンションは六階建てでその時は二十七世帯が部屋に居り、引火による火の手が回る中、避難経路の確保と取り残された残り十八人を救出するも、途中で足場が崩落した。その時の犠牲者が二人だったのだ。世間はその二人を悼みながらも、かのヒーローを批判するものは少なかった。消防が駆けつけるより早くに救出を行っていたことは高く評価され、後にそのヒーローはヒーローランキングの上位三十名の中に乗っていた。
――カーボニウムヒーロー、グランファ。彼は、この活躍の確か五年後ほどに、引退しなければならないほどの大怪我を負った。それは丁度、オールマイトとサイドキック契約を結ぶ話が持ち上がった直後の事だったと思う。ヒーロー雑誌に一度取り上げられ、残念だったとオールマイトがコメントを残しているのを覚えている。
そんなヒーローのスクラップ記事が何故、名前宛てに届いているのだろうか。記事の隅々まで読み、電球にかざしてなにか仕掛けでも、と探してみたが、なにもなかった。本当に、ただの当時の記事だった。


「……お母さん?」


そこで、母が押し黙っていたのに気づいた。顎に手を置きながら考えていたので、母が何も言わずに立ち続けていることに気づかなかった。記事から顔を上げて母の顔を見れば、また、何も言えなくなってしまった。


「……お母さん」


その表情は、何なのだろう。驚いているわけではなかった。ただ珍しく唇を真一文字に引き結び、どこかを見ていた。もう一度、お母さんと呼びかければはっとしたように顔を上げ、それから、出久の手を掴んだ。


「……出久」


名前に似ている目が、こちらを射抜く。一瞬の思案を挟んだ後、強張った声でそう言った。


「何があっても、名前を、守ってあげて」
「…どういうこと?」
「……きっと名前の問題だから、」


何かを隠している。恐らく、この記事と彼女は無関係ではない。けれど、出久は何も知らなかった。ずっと、何も知らなかった。
――家族なのに。兄妹なのに。出久だけが何も知らされずに今まできたのか。名前が今日あんな調子なのには訳があって、こんな封筒が届いたのは偶然ではなく、けれど出久は何も知らない。なんだ、それ。
手の中で、記事を握りつぶした。母の言葉に、素直にわかったとすぐさま返すことができなかった。
なにかあったら守る。その気持ちが揺らいだわけではない。家族にもしものことがあれば、考えるよりも早くこの足は動くだろう。そういうことでは、ない。
この感情を言葉にすることもできずに募っていく鉛に、踵を返した。母の声に返す言葉もなく、自室に逃げ込む。部屋の扉に背を凭れながら、ぐしゃぐしゃになった記事を広げた。
カーボニウムヒーロー、グランファ。
オールマイトを追いかけているファンの間では、彼の名前を知らない者はいないだろう。彼とサイドキック契約の話が持ち上がること自体珍しかったのだ。しかし、グランファ自体はあまりメディアに姿を現さず、その顔立ちは謎に包まれている部分が多い。動画サイトを漁っても、当時のビルボードチャート発表会場で登壇した記録は残っていない。彼に助けられたものくらいしか、彼の存在を認識していないのだ。
扉に寄りかかったまま、スクロールの指は止めない。グランファの記事を見つけたらブックマークして、時系列に集めていく。
ヒーロー関連の記事は多い。とくに人気になっていくとネット上のファンが事件のまとめや人物像の考察、今後の展開など合わせてサイトに挙げていることも多い。グランファのそういったまとめサイトもいくつか見かけたが、やはり最後の仕事は今から六年前の四月で終わっている。名前と出久が九歳のときだ。その時の彼の事務所や所属などの記載はない。解決事件は実家の付近に多いことから、大凡事務所はこの辺りで間違いはなさそうだ。
ずりずりと扉伝いに腰を落とした。フローリングの床は冷たかった。
生まれてから九歳までの間に、彼女とグランファに繋がりがあったとして、どうするというのだ。彼女がヒーローを嫌っている心は本当だろう。ヒーロー嫌いは物心ついたときからあった。――ああでも確かに、いつからかその嫌悪は強くはなっていったようには思う。わからない。そう考えたいだけなのかもしれない。
――出久が、無個性なのにもかかわらずヒーローを諦めなかったから。それが嫌だったのかもしれない。そんなもの、考えだしたら切りがない。

少なくとも出久は今まで本音を言い合っていたつもりだった。言葉がなければ伝わらないのだから、伝えたいことはすべて言葉にしてきたつもりだった。それは名前も同じだと思っていた。けれど、そうだ。雄英高校を目指し始めてから、それは確かに変わっていったのかもしれない。高校に入学してから、彼女が何を考えているのか分からなくなった。
今日だって、あの話も突然だった。昼ご飯を教室で摂っていれば、食堂から帰ってきた上鳴がいきおいよく出久の席までやってきて、名前ちゃんって無個性だったのかなどと言ってきたのだ。聞けば、普通科の女の子たちがそう噂をしているようだった。いや噂などと曖昧なものではなく、はっきりと彼女は無個性だと教えてもらったと。
――ヒーローを目指さなければ確かに、無個性であることは大した障害ではないのだろう。けれど、今まで有耶無耶にしていたものを今更そんなふうにさらけ出さなくてもよかったはずだ。雄英高校はヒーロー科があるので、個性に関して殆どが何かしら思うところがある。
この学校で無個性を探すのも一苦労だろう。もしかしたら、名前以外いないかもしれない。こんな風に広まってしまって、彼女がもしも肩身が狭くなったとしたら――それは恐らく、出久の所為でもあるのだろう。片割れがヒーロー科で、この間の体育祭であんな戦いを晒し、学校であれやこれや聞かれた結果が、無個性だと伝えることになったのかもしれない。
パタンと静かに、隣の部屋の扉が閉められる。静かな足音が数歩響いたのち、ベッドに飛び込む音がかすかに聞こえた。それからはずっと、無音だった。
机の上のオールマイトは、笑っている。
誰かを不安にさせてしまわないために、笑っていなければいけない。出久が同じ学校にいることで、名前は笑えなくなってしまうのではないだろうか。
携帯の画面は暗い。スクラップ記事はよれよれになっている。傷だらけの腕は、もう治らない。
守ってあげてね。母の声が、耳から離れなかった。

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