24
翌朝、いつもよりも随分と遅く起きてきた名前は、ひどく緩慢な動作で朝の支度をしていた。行きたくないのだろう。そう分かるほどには、時間も気にせずに動いていた。
昨日の差出人のない封筒はごみ箱に捨てた。中身は出久の机の上に置いてきたが、彼女が部屋に無断で入ってくることはないので問題はないだろう。
――タイミングも悪く、来週からは職場体験が始まる。一週間の間、家を離れてしまう。その間に何が起こるともわからない。オールマイトに事情を説明したほうがいいのだろうか。もしかしたら、グランファと名前の関係を知っている可能性もある。
洗面所で一人、歯を磨きながら考えていれば、廊下を誰かが横切った。
「名前、もう行くの? 顔色がよくないけど、大丈夫なの…?」
リビングの方から聞こえた母の言葉に、どうやら横切ったのは名前だったようだ。朝ごはんを食べずに家を出ようとしたようで、それならば確かにゆっくりと支度をしても間に合う。大丈夫、と簡潔な返答の後、すぐにでも家を出ようとしていたので、歯ブラシを加えたまま廊下へ顔を出した。
「僕ももう行くから、ちょっと待ってて」
「……」
長い沈黙の後、無言で頷いた彼女はもう一度リビングに戻って行った。
今日こそは、ちゃんと話をしよう。口を漱いだ後、鏡に映る自分と約束した。
家から駅までの道のりでの収穫はゼロだった。
『顔色、悪いよ? ほんとに大丈夫?』
『うん』
『昨日は、本当に、なにもなかったの?』
『うん』
『……学校、休んでもいいんじゃないか?』
『行く』
ずっと、こんな具合だった。隣に並んで歩いてはいるが、彼女の心はもうだいぶどこかへと歩いている。こんな顔をされて大丈夫だと言われたところで、全くそうじゃないことなど、出久が双子でなくたって分かるだろう。
駅の改札口に入ったあたりから、彼女の視線は定まらず、絶えず動き回っていた。まるで、何かを探しているようだった。そうして、ホームで電車を待つ間、名前が出久の服の袖をつかんだ。俯いて、表情までは分からない。心臓がざわつく。
電車で考えられることと言ったら誰かに触られたかなにかだろうか。それでも、こんなふうに怯えるものなのだろうか。
ホームに着いた電車に乗りながら、彼女の背後に回る。――彼女の旋毛を見下ろして、そういえばこんなにも身長の差ができていたのだなと改めて知った。
「……大丈夫?」
変わらずに俯いていた彼女は、弾かれたように顔を上げて、振り向いた。大丈夫と、懸命に、作り笑いをしていた。
この問答を繰り返すことも酷なことだろうとは思う。けれど、それ以外にかける言葉は見当たらなかった。隠されて、しまうから。
自分だけが除け者にされて、知らなくていいと突き放されて、なかったことにされるのか。知らなければ、そこには何もなかったことと同じだ。干渉できなければ意味はない。大切な、ことじゃないのか。名前にとって、そうして悩み込んでしまうくらい、大切なことではないのか。
握り込んだ拳の行く当てもなく、小さく、息を吐いた。
* * *
大丈夫だ。こんなものは杞憂だ。偶然が折り重なっただけの、厄日だったのだ。悪いことは続くというが、あれは悪いことだと思い込むことからも始まってしまうという。であれば、大丈夫だという思い込みもまた然りのはずだ。
電車に揺られながら、いつの間にか背後に回っていた出久に安心した。誰かからの視線を受けなくて済むような気がしたから。だから、彼の最後の確認のように紡がれた心配の声に、大丈夫だと答えたのだ。
本当は、出久に心配をかけさせてしまうような問題ではないのだ。しっかりしなければと、顔を上げれば、電車の広告のオールマイトが笑っていた。
C組の教室につくなり、クラスメイトの視線を受けた。小学校の頃を思い出すなと少し笑えた。中学の時は、無個性であること自体は慣れたのか何も起きなかった。出久の場合は無個性なのにヒーローを目指していると知られたからこそ、反応も大きかったのだ。有個性かつヒーロー至上の考え方は、雄英ならではのところもあるのだろう。自分の席について鞄の中身を机の中に移していれば、目の前の席に心操が座った。体育祭前以来だと思う。
「おはよ」
「おはよう、どうしたの?」
いや、と視線を横に逸らした彼は、少しの間の後名前の英語の教科書を指差した。今日の二限は英語があった。確か普通科担当の先生がお休みのようで、代わりにヒーロー科で英語を受け持っているプレゼントマイクが来てくれるそうだ。分かりやすいが、少々声が大きいところが難点だと、以前出久が言っていた。
「前回の単元の合間の確認テストの奴、構文がイマイチ分からなくてさ」
教科書とノートを広げながら、ざっくりと話を続ける。英語が得意になった覚えもなく、どちらかというと恐らく心操のほうが成績はいいのではないかと思うが、何も触れずに目の前の英文を眺める。ヒーローの基質は、こういうところにもあるのかもしれない。
始業のチャイムが鳴るまで、周りの視線は気にならなかった。
放課後、六限が終わったタイミングで出久から、次の基礎学が終わったら一緒に帰ろうとメッセージが届いた。昨日の今日で、確かにまだ、一人でホームに立つ勇気はなかった。自分の問題なのにと、内心情けなさに断りたくなる気持ちもわくが、朝のあの調子では出久も譲らないのだろう。今日は部活動があるからと柚希たちとも先程解散したばかりで、教室には名前と数人がまだ残っていた。彼らも、遊ぶ場所を決めているようでもう直にいなくなるようだ。
特段出された課題もなく、やることもなく手持無沙汰のまま、スマホを見つめる。SNSとメッセージアプリを意味もなく往復を繰り返したところで、電源を落とした。
教室には、誰もいなくなっていた。陽が昇る時間は段々と長くなり、まだ空は青かった。
ガラララッ。
窓の奥を見ていた名前にとっては不意打ちのように存外大きい音を立てて扉が開かれた。振り返れば、ジャージ姿の心操が立っていた。彼も名前の存在は予想外だったようで、驚いたような表情のまま一瞬固まった。
はて、彼は部活動に加入していただろうか。この時間にジャージということは必然的にそうなるのだが、あまり部活をしているイメージが湧いてこない。不思議そうにしたのが伝わったのか、心操はぎこちなさそうに手を挙げた後、教室後方のロッカーまで歩いていく。何かをごそごそと取り出しながら、静かに声を上げた。
「体育祭で、本当は言いかけたんだ」
「えっ」
話が始まるとは思ってもおらず、頓狂な声が出た。それに彼は笑ってから立ち上がると、ロッカーに背を預ける。
「……緑谷さん、入学式の日に個性の話をしなかったし、体育祭も乗り気じゃなかったから、もしかしたら、無個性なんじゃないかって思ってた。俺はこんな個性だったから、今まで敵みたいだって言われてきたし、ヒーローになるには向いてない個性なんだって、思ってて、だから、緑谷さんに、誰も傷つかなくて済む個性だって言ってもらえて、嬉しかった」
噛み合わない目は、少しの気恥ずかしさに彷徨っている。項に手を置いて、まだ、言葉を探していた。
「だから、もし、緑谷さんが個性で何か思うところがあるのなら、きっと俺と同じだって思って、けど、無個性かどうか聞いたところで、そんなの別に、どうでもいいことだよなって思って聞くのやめたんだ」
「……うん、」
「こんな個性でも俺はヒーローになりたいし、どんな個性でも緑谷さんは緑谷さんのままだし、だったら、」
そこで、一旦言葉が途切れた。
彼の事情の深くは知らない。あの時叫んでいた言葉は殆ど観客席には届いておらず、出久も言いふらすような性格ではないからだ。けれど、誰かを洗脳するような個性が万人に快く受け入れられるようなものではないことくらい、想像に難くない。個性なんてものは、そういうものだ。心操は、そんな苦い空気を吸い続けながら、それでもヒーローになりたくて、ここまできたのだ。心操は同じだと言ってくれたが、全然、どこも同じではない。そんな綺麗な心など、どこにもない。
彼はロッカーに寄りかかっていた背をあげ、シューズが入るにはもう少し大きい袋を小脇に抱える。
「だったら、これからだって何にも変わらないと思う」
それじゃあ俺は行くからと、早々に踵を返した心操を引き留めることもできずにその背を見送った。再び、一人きりになった。
「……心操くん、違うんだよ……」
目を、かたく瞑る。
「このままじゃ、だめなんだってことくらい、……」
携帯の黒い画面に、水滴が一つ、落ちていった。
← :
BACK INDEX :
→