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金曜日ということもあって、放課後の皆の帰る足は速い。ホームルームを終えた後、閑散とした教室内で、緑谷が忙しなく帰り支度をしていた。いつもであれば麗日や飯田たちと雑談を交わしながら支度をしていたが、今日に限っては話しかける間もないほどにてきぱきと動いている。何か用事があるのだろうことは、容易に想像がついた。


「緑谷、何か用事があるんなら、これ、職員室持ってっとくぜ」


教卓の上に積まれたノートの山は、今日までの提出期限であるクラス全員分の課題だった。最後のペンケースを入れて顔を上げた緑谷は、苦笑いをしながら大丈夫だよと言った。


「ありがとう、切島くん。でも、用事もないから帰りに一緒に持っていけるよ」
「そうか?」


用事もないというのに、何にそんなに慌てているのだろう。
椅子から立ち上がった緑谷と、ドア横で話し込んでいた上鳴が声を上げたのは殆ど同時だった。


「お、名前ちゃんじゃん」


開け放たれたままのドアから控えめにのぞくように顔を出したのは、緑谷の双子の名前だった。上鳴の声掛けにびくりと肩を跳ね上げた彼女は、久しぶりとへらりと笑った。体育祭ぶりに顔を見かけたが、少しだけ、顔色は悪いように見える。
緑谷は卓上のノートを軽々と持ち上げると、早々に彼女を連れて出て行ってしまった。
芦戸や耳郎、上鳴が、その後姿を見ながら、意外と過保護なのかなと、笑っている。以前までは、そんなようなことはなかったと思う。そうして思い出されたのは、昨日の事だった。

――昨日の昼休み。上鳴と爆豪と共に食堂でランチラッシュにラーメンを頼み、空いた席に腰を落ち着けて麺を啜ろうと口に含んだ時だった。


『――でもさあ、無個性ってやばいよね』
『それね、私たちの代でもいるんだって感じ。おじいちゃんとかなら分かるけど』


切島の正面に座っていた爆豪の、その後ろにいた女子生徒四人が、弁当を広げながらそう言っていた。制服からして普通科なのだろう。先程まで、会話の一端も気にはならなかったというのに、無個性だという言葉が、やけに耳に残った。
爆豪も上鳴もたいして気にも留めていない風に目の前のご飯をもくもくと食べていたが、次いで出てきた言葉で、全員の箸の動きが止まった。


『双子なのに、そういうこともあるんだね』
『しかもあっちはヒーロー科でしょ?』
『あー指めっちゃえぐかったよね』


恐らく同学年で、しかもヒーロー科と普通科に通っている双子なんて、一組しか知らない。――つまりは、名前が、無個性だということだ。
思わず目が合った上鳴が、そのまま隣の爆豪を見た。彼は、一瞬止めた箸を、再び気にした素振りも見せずに口元に運んでいる。


『それって、名前ちゃんのこと?』


こういうところが上鳴らしいとは思う。右肘を背もたれに乗せて上体を捻らせた彼は、後ろにいた彼女たちにさらりと聞いてのけたのだ。突然声をかけられたことで驚きつつも、相手がヒーロー科だと気付くなり、気まずそうに顔を見合わせながら頷いた。


『まじかよ。爆豪知ってたか?』
『くそほど興味もねえわ』
『うわ、幼馴染なんだろー? ひっでぇ』


軽薄な返しに上鳴は不服そうに唇を尖らせるが、爆豪の目は確実に据わっていたと思う。緑谷兄妹については地雷であると、ついこの間学んだばかりであるので、切島はただ顔面に苦笑を浮かべるほかなかった。
――そして、USJ事件の後を思い出す。爆豪を待っていた切島は、教室で緑谷の荷物を取りに来た名前と居合わせた。その時、何を話していいかもわからず、取り敢えず無難に個性の話題を持ち上げたのだ。初対面で個性の話題が出るのは、ありきたりな流れではあったのだ。彼女はそういえば、ヒーロー向きの個性ではなかったのだと言っていたが、今にして思えば濁していたのだろう。きっと、あの時の言葉は彼女を傷つけていたのだ。


「どーしたー? 切島」


名を呼ばれて顔をあげれば、上鳴が大きく手を振りながら、首を傾げている。考え事してたと言えば、今日はこれから雨だったっけと怪訝な顔をされたので、その黄色の頭を軽く叩いておいた。
個性がないという感覚を知るには程遠い。親戚の誰もが何かしらの個性を有している中で、確かに、同学年で無個性という存在は不思議ではあった。
個性は四歳までには発現すると言われている。双子であったというのに、緑谷の個性を見せつけられながら、一向に個性が現れない身体を、彼女はどんな風に感じてきたのだろう。
それはきっと、どちらにとっても、笑えるようなものではなかっただろう。
それぐらいしか、わからなかった。



*     *      *



肩にかけた鞄の紐が、髪をはさみ込んでいて痛い。歩くたびに揺れる髪が風にさらわれて、少しだけ湿った匂いがした。
金曜日の帰宅ラッシュということもあり、ホームも車内も人混みが凄まじく、あの息苦しい視線はどこにもなかった。ただ、絶えずずっと背中を押されているような感覚が拭えなかった。早くこのまま飛び降りろと、唆す声が聞こえてくるような気がする。あの日の左肩が、じくりと痛んだ。
ポストを見てくるから先にいっていてと、背後で出久が言った。いつもならエレベーターを使っていたが、その日はたまたま工事中のようで、貼り紙には階段をご利用くださいと一言添えられている。仕方なく、すぐ脇にある階段を上り始めた。
三階分を上ったところで、手すりの下から出久が上ってくる姿が見えた。手には、いくつかの郵便物を抱えている。大小の紙束はさぞ持ちづらいのだろう。分かる。けれど、何故か空いた片方の手で、細長い茶封筒をぐしゃぐしゃに握り込んでいた。


カツン。


革靴の音が上から降ってくる。集合住宅なのだから、サラリーマンもいるはずだ。
やけに鋭く響いた音に、出久から目線を上げて振り仰げば、黒髪をオールバックに固めた中年のスーツを着た男が、踊り場に立っていた。なにも、おかしくはない。この時期につけるマスクも、グレーのジャケットも、黒の革靴も、艶のある鞄も。何一つ、そこかしこにいるサラリーマンそのものだ。細い黒縁の眼鏡が、吐いた呼吸で僅かに曇っている。踊り場で、恐らく彼女が見上げてしまったから、きっと不思議に立ち止まってしまっているのだろう。その歩みをゆっくりと動かす。
一歩ずつ、降りてくる。革靴の音が響く。下から駆けあがってくる軽やかな足音。電車のホームで響く沢山の音が犇めく。靴底に感じる階段の段差。薄らと香る匂い。誰かに、ずっと背中を押されている。肩を、熱い手で掴まれている。皮膚が灼けるような、鋭い熱さで。


「名前、どうしたの?」


ひゅうと、空気が喉を通る。いつの間にか追いつかれていた。目の前にも後ろにも、スーツの男はいない。手すりから階下を覗けば、動く人影が二階層を歩いていた。


「……すれ違った人、お父さんに似てなかった?」
「え?」


名前の言葉に、怪訝な顔を隠しもしない彼を置いて、一段飛ばしで駆けあがった。


「だから、思わず小さい頃を思い出しちゃった」
「――名前」


先程まで男がいた踊り場で、立ち止まる。動かない出久がいる位置は、名前がいたその場所だ。出久の見上げた双眸は、まるであの幼馴染に似ていた。


「僕に、隠してること、ない?」
「ないよ」


湿った匂いだ。口はからからに渇いている。階段を駆けあがれば、エレベーターが丁度、下に呼ばれて降りて行った。貼り紙をはがし忘れているのか付け忘れているのか、少しばかり杜撰だななどとどうでもいいことを呟いて、玄関が並ぶ廊下を歩く。
緑谷の表札が書かれた玄関横の窓は明るく、ガスの動いている音がした。
アヤメの花びらが、ドアの前で散っている。花の匂いが広がっている。ふわりと、風に巻かれて流れていった。

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