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なんらかの郵便物がある。それも宛先は名前で、恐らく渡すことができないような内容のものだ。
出久はそれを隠しているようだった。金曜の夜に広げた郵便物の中に、あのくしゃくしゃになっているのであろう封筒はなかった。けれど、彼が学校から持って歩いていた記憶はない。であればやはり、あの手に持っていた封筒は、リビングに置くことはできないもの。
――隠し事はないかと、言われた。
その封筒の中に、そう問い質さなければいけなかったものが、入っているのではないのだろうか。
昨日の革靴の足音が、やけに耳から離れなかった。


「……ちょっと、コンビニいってくる」


出久はランニングで外に出ている。いつもであれば、帰ってくるのはあと一時間程度だ。
母の気を付けてという声に、携帯は持ってるよと返して、スニーカーを履いて玄関のドアを押し開けた。
外はどっぷりと暗くなっていた。徐々に日も延びてはきているが、七時も近ければそれは暗いだろう。周囲を見渡しながら、エレベーターで降り、部屋番号のポストを開ける。
――茶色の封筒だ。宛名は、緑谷名前様と、丁寧な字体で綴られている。
封筒から、微かに嗅いだことのある匂いがしたが、それが何かは分からなかった。鼻腔を掠めた匂いに、視界の端でちかちかとなにかが明滅する。目の奥がずきりと重たい痛みを伴っていて、形容しがたい不快感を引き連れている。
今すぐにでも中身を暴いてしまいたいが、コンビニにいくといった手前、手ぶらで帰宅するのも憚れたので、歩いて五分ほどのコンビニでシュークリームを三つ購入して戻った。出久はまだ帰ってきていないようだった。
冷蔵庫に無造作に投入した後、手を洗いに行く序でに、出久の部屋に滑り込む。予想していたものは思いのほか無造作に、そこに置いてあった。
皺だらけの、手のひらほどの記事のスクラップ。見覚えのあるヒーロー名。彼を湛える文字列。目の奥の痛みは、引かなかった。
スクラップをそのままに、素早く彼の部屋を出た。自室にこもり、ポケットから今日届いていた封筒を取り出して上部を破る。中には、同じような記事が綺麗に折り込まれていた。


【カーボニウムヒーロー・グランファ 拉致、監禁されていた民間人を救うも、敵との交戦中に重傷を負い昏睡状態が続いている。ヒーローとしての復帰は絶望的との声も上がっており、早期の回復を祈るばかりだ。】


地方紙の一記事だ。日付は六年前の四月十八日。二人が九歳だった頃。
中にはもう一枚、週刊雑誌の一ページを印刷したものが入っていた。サイドキック契約間近であったグランファの引退を受けて、オールマイトのインタビューが載っている。最後には、方々から引退を惜しむ声が続いていると、締めくくられていた。
――渇く。心臓まで、渇いていく。ああ、頭が、目の奥が、痛い。
そうして吸い込んだ空気に混じる匂いに、あの日の景色が脳裏に浮かんだ。
そうだ。封筒にべったりと染みついたこの匂いは、まき散らされたあの花は、忘れることなど許さないと怒っているのだ。


「……名前」


ドア越しに、母の呼ぶ声がした。すぐそこにいるようで、入ってもいいかと聞いてきた声に、無言でドアを開ける。
目を瞑り続けてきた。許される気などない。だというのに、向き合うことをしてこなかった。
廊下で立ち竦む彼女は、もうずっと、約束を守ってくれていた。その湛えた一文字の唇が震えているのは、今に始まったことではない。


「……名前。出久に、まだ言わないの?」
「……今更、何をいうの」
「出久だってヒーローを目指してる。もし、貴女があのことで、今何か困っているなら――」
「また、助けてもらうの?」


手から、記事が落ちた。母がそれを目で追って、それでも驚いていないあたり、彼女も知っていたのだろう。


「今度は、出久に? それでまた、あんなふうになっても、ヒーローだからねって、それで終わるの? そんなの間違ってる、これは、私が、何とかしないといけない話でしょ…? 出久はどこにも、全然、関係ない」
「それで何かあってからじゃ、遅いのよ」


珍しく強い母の語気にたじろぐ。


「名前、貴女は女の子で、まだ子供なのよ」


――分かっている。自分自身でどうにかできることならば、あのホームでもう立ち竦むことなどない。ずっと押されているこの背中に、灼け続ける肩に、怯えてなどいない。
そんなこと、一人でなどできないと、分かってはいるのだ。けれど、今更、出久に何を伝えるというのだろう。それで、どうなるというのだ。何も、変わらない。過去が変わるわけではない。誰かの怒りが収まるわけではない。


「……出久には、まだ言わないで。自分から言うから、ちゃんと」


苦々しく、母はわかったと頷いた。
けれど恐らく、封筒はこれで終わりのはずだ。華々しい活躍と引退の記事。差出人は、恐らく、思い知れと言っているのだ。あれだけの人をこんなふうにしたのは紛れもないお前なのだと、そう指を指している。
六年間だ。炎を背に笑うあの人の顔を。病室で俯く堪えた顔を。憧憬に細める目を、苦悶に歪む唇を、打ちひしがれる四肢を。目の当たりにしてきている。痩せた頬を見るたびに、込み上げてきた声を抑えられなくなった。ヒーローになりたいのだと笑う出久に、背を背けることしか、できなくなっていた。
――あの時、救けを呼ばなければよかったのだろうか。あの時、大人しく家で母を待っていればよかったのだろうか。出久と帰ってきていれば、一人になんて、ならなければ。ああそもそも、名前なんてものがいなければ。そうであれば、そうすれば、よかったのだろうか。

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