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昔の記憶を思い起こすたびに、母と出久ばかりが現れる。父の顔はあまり覚えていない。物心がつく前より単身赴任で家を出ていて、家の中にある写真に写るその人が父なのだと、父がいないことも、母がそういうふうにいうことも、すべて、さして違和感もなくそれは緑谷家にとっての常識だった。
本当は、父の顔など、写真を見なければ明確には分からないのだ。そんなことは、恐らく出久でさえ知っている。彼も、そんなふうに思っている。
見え透いた嘘だ。厚塗りを重ねた嘘は、一体どこまで、塗り重ねていけばいいのだろう。
もうずっと、分からなくなっていた。


「……、朝……」


鳥のさえずりばかりが晴れやかで、カーテンを引いた部屋の中は薄暗い。隙間からのぞくわずかな朝陽が、布団の上を斜めに引き裂いていた。
隣の部屋から聞こえる物音に、とうとう彼は職場体験に出て行ってしまうのだと徹夜明けの呆然とした頭の中で理解する。行き先は山梨のようで、オールマイトの先生の所で一週間を過ごすようだ。彼は日々、前に進んでいた。身の内に宿った個性を必死に扱いこなそうとあがいている。オールマイトのようになりたいと煌めきながら、どんな苦渋にも耐えている。体育祭のあの日からぶら提げている傷だらけの右腕は、勲章なのだと、戒めなのだと、ヒーローを名乗る人にとっては、そういうものなのだろう。
起き上がった体がひどく重たい。はらはらと零れ落ちてきた涙が、薄っぺらい布団に染みを作っていた。


コン、コン。


控えめなノックが、朝の部屋にはよく響いた。次いで聞こえた声は、躊躇っている。
瞬きを数度してから収まりきらない涙を拭い取り、冷えたフローリングに足をつけた。ぺたぺたと足音が反響して、彼とを隔てるドアに触れる。ノブが、捻られた。


「ごめん、起こした?」
「……ううん、起きてたよ」


もう既に準備の整った出久は、足元にいつものリュックを置いていた。ぱんぱんに膨らんでいるそれには、最低限の衣服が詰め込まれているのだろう。救急セットとか入れてないんだろうなあと、残量がなさそうで引きちぎれそうなチャックを見つめていた。


「…名前、あのさ…、僕はまだ、個性もうまく使えてない。体育祭のあの時も、こんなんじゃだめだって思いながら、それでも、使うしかなくて、結果的に、名前を不安にさせて、クラスでも、嫌な思いを、させて。――本当、ごめん」


顔を、上げられなかった。脳裏に結ばれた像は、いつだかの小さな出久を映している。


「……でも、これからもっと、強くなるから、心配をさせないように、個性もうまく扱えるようにするから。そうしたら、今、名前が何を考えてるのかとか、教えてほしい。言ってくれなきゃ、何も、分からないんだよ」


パジャマからのぞく指に、震えはない。ただ血色の悪い指先が、彼の制服の袖を抓んだ。


「わたしは…私は、……。帰ってきたら、ちゃんと、私も、ちゃんと…」


唇が歪みそうになるのをこらえた。いつだかに背を合わせながら眠った日を、不意に思い出した。
集合時間の都合でいつもよりも早い時間に家を出なければならない出久の背を、そのまま母と共に見送った。いつもなら今頃に起きて支度を始める時間だった。無意味なアラームが、手の中で喚いている。
――その後、母と朝食の席につきながら進まない箸に、体の不調を知った。しぶしぶ体温計を脇に挟んで確認しても熱はなく、ただ、鉛のように重い手足と頭の所為で、テーブルから一歩も動けなくなっていた。玄関が遠い。頭の中でようやく通い慣れた駅のホームが浮かぶ。また、誰かに背中を押された。


「……休んでくれた方が、お母さんは安心するんだけどね」


テーブルに突っ伏したまま、頭上で話す母のそんな言葉を拾った。
何度頭の中で駅に足を運んでも、線路に落ちる映像しか思い浮かばない。悪寒が、背筋を震わせる。姿の見えない怒りなんてものに、晒されたのは久しぶりだった。


「……やすむ」


やはり、ひとりでは、なにもできないのだ。



     *     *     *



小学校に入学したばかりの頃、昼までに授業は終わってしまうので、母の仕事が終わるには時間は長く、そういう時は大概公園か、裏山というには小さな森で母を待ちながら遊んでいた。相手と言えば保育園の時からの幼馴染であった爆豪や近所の子供で、出久たちが森の奥に進むような遊びをするときはついていかないこともあった。服をボロボロにするような遊びを、母はあまりよくは思っていなかったので、子供ながらに察していたのだ。
あの日も公園の砂場で泥遊びをしていれば、砂場の横にあるベンチに、黒い服に腕や足にシルバーのプロテクターをつけた男が、ペットボトルを傾けながら休憩していた。テレビで見たことのある、ヒーローという人なのだろう。よく出久がはしゃぎながらそういう人たちを見ていたのを思い出した。


「お嬢ちゃん一人かい?」


濡れた口元を拭いながら、彼は柔和な笑みを浮かべて言った。


「うん、おかあさんお仕事だから、待ってるの」


彼の方を少し向いてから視線を落とした。泥団子の表面を滑らせて、形を整えていく。
彼は空になったペットボトルをゴミ箱に入れて、それから砂場の近くまで歩み寄りしゃがみこんだ。


「大体いつも、お母さんは何時頃に来てくれるのかな」
「うーんと、長いのが三のところだから、三時?」


短針は二を、長針は九のあたりを指していて、きっともうすぐ、買い物袋を提げて迎えに来てくれるのだ。せっせと泥団子に乾いた砂をかけながら、一向に動く気配のなさそうな彼をちらりと見上げる。彼は、砂場の縁に胡坐を掻いて、何やら円形の土台を形作り始めた。


「おじさん、ひまなの?」


近くの小さなバケツに汲んでいた水と土を混ぜながら、何かを作っている。彼ははっと手を止めた後、泥のついた指先で頬を掻いた。


「私はね、ヒーローって言ってね、皆が無事にお家に帰れるよう見廻りをしていたんだよ」
「ひーろーなら知ってるよ、いずが好きっていってた」
「お嬢ちゃんは好きじゃあないのかい?」
「うん、だって、きのうテレビでやってたよ。じゅんしょくって、みんなを助けて、死んじゃうことなんでしょ?」


テレビでやっていたのは、敵と戦って二人のヒーローが殉職したというものだった。殉職って何だろうと母に聞けば、皆を一生懸命守ってくれて、それでも亡くなってしまうことなのだと言っていた。出久はそういう人に、なりたいのだといつもいっているということなのだろう。


「だから、ひーろーなんてきらい」


彼が作っていた山は不恰好で、何かを形作ることをやめた両手が宙に浮いている。
名前は磨いていた泥団子を、そのよくわからない山の上に乗せてみた。男は、何も言わなかった。


「……そうだね、それでも、ヒーローっていうのは、君がお母さんと一緒にお家に帰って、また元気な姿を見せてくれることがすごく嬉しくて、つい、頑張っちゃうんだなあ」
「へんなの。わたし、おじさんのかぞくじゃないのに」
「――名前! おまたせ!」


驚いたような顔をした男の背後から、ひょっこりと母が顔を出した。泥だらけの手を叩きながら駆けよれば、重そうな袋を二つも提げている。その一つをもらいながら母を見上げると、その目線の先の男が立ち上がった。


「こんにちは、私、この辺りのパトロールをしていますヒーローでして」
「有り難うございます。この子、いつもこの公園にいるので、気にかけてもらえると安心します」
「わたし緑谷名前です、おじさんは?」


へらっと笑ったその人の手は、名前と同じように泥だらけだった。白いグローブの汚れを数度叩いて、綺麗になっていることを確認してから、名前の頭をぽんぽんと撫でる。


「グランファだ。何かあれば、必ず、すぐに名前ちゃんのもとに走ってこよう!」


それが、名前の憶えている彼女とグランファの一番古い記憶だった。

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