02



泣きたいのは出久のほうだっただろう。
飛び降り教唆をされる前に窓から投げ捨てられていた、彼が懸命にヒーロー分析をしていたノートを下駄箱からの帰り途中で拾いながら、お互い何も言えずにいた。いつもの帰り道をとぼとぼと小さな歩幅で歩きながら、彼の背中を盗み見る。声をかけようか、何を言おうか。逡巡がまるで伝わったように、彼は不意に口を開いた。


「かっちゃんも、雄英に行くんだって」
「……そう」
「雄英に行ったら、かっちゃんにも会うだろうし、ヒーローを目指している人も、いっぱい、いるだろうし。名前はどうして、雄英に行くの?」


それは朝の話の続きだった。ヒーローという職業が好きではない名前が、どうしてヒーローを目指している生徒が大勢集まるような学校に行くのか。経済面などとってつけた理由だろうと、朝の彼の微妙な表情がこのことを言わんとしていたのだと気づいてはいた。分かっている。それでも変わらなかった。変えられないに、近かったのかもしれない。


「……いずがヒーローになりたいのなら、それを、ちゃんと見届けたいと思った、から」


今の出久にとってその言葉は、どれだけ酷なことだっただろうか。声が唇を離れていってしまってから気付いた程には、自分の感情の整理で精一杯だった。
短いトンネルの出口で彼は立ち止まった。それにつられて立ち止まる。ノートを握りしめた手が、震えていた。


「……分かってたよ。無個性の僕がヒーローになることがどれだけ難しいかなんて。……っでも、周りになんて言われたって、上見て突き進むって決めたんだ」


トンネルを抜けた先に見える空を振り仰ぎながら、彼は握りしめた拳を胸の前で掲げた。
諦めないのだ、彼は。無個性のくせにと散々馬鹿にされて、痛くて苦しくて、悔しい思いを何度だってしてきたはずなのに。そういうところが、本当に――


「――っ!?」
「な、――!」


マンホールから何かが噴き出してきたのを見た。瞬間振り向いた出久が名前の腕をつかむ。一瞬のうちに視界は真暗になり、コンクリートに立っていた感覚も失せた。息もできずにそれでももがいていれば、指先から水に似たなにかがすり抜けていくばかりで何も掴めない。ぼやぼやとまるでプールの中のようなぼやけた声が聞こえる。ぎゅうと腕をつかむ出久の力が強くなった。


(くる、し……!)


ごぽ、と吐いた空気にあぶくは浮かない。口の中の空気がなくなり、全身に力が入らなくなった。真暗闇の視界の上から、より深い黒が落ちてくるような感覚がする。苦しいと喘ぐ意識が引きはがされていく。ふっと、どこかで誰かの声が聞こえた。懐かしい、声だったような気がする。

――猛烈な風が吹いた。真暗な視界が一気に眩しく、そして肢体は宙に浮いた。急速に落下する体を、出久の腕ではない誰かのもので受け止められる。液体のそれらが目の前で四散していくのが視界の端で見えた。
もう、全身に力が入らない。出久の腕がかくんと落ちたのとほぼ同時に、彼女の意識も落ちていった。

聞き慣れた声の悲鳴が聞こえた。目蓋裏の刺すような橙色の光から逃げるように腕で庇を作り、二度ほど言葉にならない声を漏らして目を覚ました。騒がしい右側を見やれば、出久がノートを広げて喜んでいる。その先には、彼の大好きなオールマイトが立っていた。


「お、君も目を覚ましたかい! よかった、じゃあ私はこれで!!」
「あっ」
「今後とも応援よろしくね――」


有難うございますと言い切らないうちに凄まじい風を巻き上げながら飛んで行った。圧倒的な雰囲気の違いに暫く目を奪われ、感想の同意を求めて視線を右にずらした。


「――あれ?」


左も、後ろにも、誰もいない。あのもさもさとした頭をどれだけ探してもどこにもいなかった。あと考えられることといえば――。


「……えええええ! ついてっちゃったの!?」


残された名前の声だけが、住宅街に反響した。



   *     *     *



何処に飛んでいったのか全く定かではないため、取り敢えず大通りを目指して歩いていた。相手はオールマイトだったので、何も気にせず帰路についてもよかったのだが、どのみち家で待っている間は大人しくできないだろう。それに恐らく大通りのほうを歩いていれば出くわすような気もした。これは完全にただの勘である。
周りを見やりながらひとまず大通りには出たものの、まず右か左かの選択肢が生まれた。どうしたものかと思案していると、突然どこからか爆発音が鳴り響いた。
上を見上げれば、煙がなびいている。そう遠くない所らしい。事件に合わせて出久が立ち寄る可能性は高い。そんな心の余裕はないかもしれないが、通るくらいはするだろう。足は既にその爆発音のする方へと向かっていた。続けざまに爆発が起こり、周囲に焦げ付いた臭いが立ち込め始めていた。
二キロメートルもない程を走ったところで、人だかりを見つけた。携帯を持ち上げて動画を撮っている様子を見るに、状況は惨くはないらしい。それでもヒーローが対処しているときのような盛り上がりはなく、違和感を感じながらその野次馬の最後尾に辿り着いた。
状況を見ようと首を左右に振っていれば、遠くから名前を呼ぶ声が聞こえた。


「いず! よかった、どこいったのかと」
「ご、ごめん……っあいつ、なんで!?」


彼が指差した方を隙間から見れば、丁度蠢く敵が見えた。彼の反応から見るにあれは恐らく先程捕まっていた敵らしく、あの時視界が暗かった彼女には遠目で見ても分からなかった。炎上する建物の間で、必死に抵抗しているようだった。
あの息もできない苦しさの中、一体誰がもがいているのだろう。誰も助けてくれていない現状を見るに、水のような身体を捕まえられるヒーローがいないようだった。


「オールマイトと一緒にいたんじゃないの?」
「ッオールマイトは、無理だよ……」


出久は口に手を当てながら、目の前の光景を見ていた。
ヒーローがいなければ、敵は捕まえられない。捕らえられている誰彼は苦しいままだ。――ヒーローがいなければ、助けられないと、知ってはいるのだ。
うねる敵の隙間から、顔が見えた。この距離からでも、はっきりと分かる。


「勝己くんだ……!」


名前が零した声より早く、何かが動いた。隣を見やればそこにはもう誰もおらず、前方で短い悲鳴が連続しておこる。警察の制止を振り切って飛び出したのは、学ランの中学生だった。


「いず!!」


飛び降りろと、死ねばいいと言われたのだ。そんな相手を見つけて、迷いもなく飛び出した。個性もなく、できることもないと分かっているのに。
彼女も出久の後を追うように人の間を縫って先頭に飛び出した。彼は勢いよくリュックを放り投げ、敵にくらいつく。


「かっちゃん!!」


呼ぶ声が響いた。自殺志願者かと飛び出した出久を責める声が続く。


「足が勝手に! 何でって…わかんないけど!!」


出久の声が、やけにはっきりと聞こえる。飛び出そうとしていた名前の身体を押さえつける警察官の腕を掴みながら、二人の姿を見つめていた。


「君が、救けを求める顔してた……!」


出久を巻き込もうと伸ばされた敵の攻撃が届くより先に、黒い何かが目で追うこともできない速度で横切った。低い雄叫びが上がった刹那、あの時の風とは比べ物にならない程の強風が吹き荒れる。風に煽られてヘドロが周囲に飛び散り、飲み込まれていた爆豪が漸く解放された。
ぽつぽつと、雫が頬を濡らす。


「右手一本で天気が変わっちまった!!」


空から、雨が降ってきた。紛れもなく、上空の雲から降り落ちるそれは、爆豪が燃やした瓦礫の炎の勢いを弱めていく。
警察の腕が緩まったところをすり抜けて出久の許へ駆けだせば、爆豪が顔を上げた。周りに称賛されている彼とは反対に、出久は叱られている。正座をして居た堪れないらしい彼の横まで歩み寄れば、叱ってくれていたヒーローがため息交じりに無茶はするなよと零して去って行った。


「出久」


ぴくりと彼の肩が震える。近くに落ちていたリュックやその散乱物を拾い上げながら、彼の前にしゃがみこんだ。


「……ヒーローだって、誰だって、死なないわけじゃないんだよ」


――こんなものは、自分の我儘だと知っている。自分自身で解決すべき感情の問題で、それを彼に押し付けていい理由にならないことくらい。分かっている。それでも。


「……お願いだから、無茶していかないで……っ」


ヒーローの番組は、綺麗なところばかりを切り張りしている。本当の苦しいところや痛いところなどは無視をして、都合のいいように差し替えられている。彼がヒーローを目指していけばいくほど、何の力も持たないことを分かっているのに、自己犠牲で飛び出してしまう。そういった切り取られてなかったことにされている部分で、どれだけの怪我をしていくのか。
怖くて、仕方がない。
スカートをぐしゃぐしゃになるまで握りしめた彼女の拳を出久は柔らかく取って、そのまま立ち上がった。腕を引かれて立ち上がれば、彼の顔いっぱいに苦笑いがあった。


「……うん、ごめん。名前」


取材陣に囲まれているオールマイトを一瞥してから、出久は帰ろうかと名前が持っていたリュックを背負い、手を引いて歩き始めた。そろりと名前が振り返れば、爆豪は相変わらずヒーローからの勧誘を受けていて、だというのに眉間に険しい皺を寄せていた。

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