28



出久が出発したその日の深夜、名前は急激な発熱と吐気に襲われていた。やはり朝方の身体の不調は気のせいではなかったのだ。ひどい汗と気持ちの悪さに目を覚ましたのが深夜というよりは未明に近く、窓の外は薄らと白んでいた。
――久しぶりに、夢を見た。
母を公園で待っていた。色鮮やかに明瞭な記憶が、悪寒と共に蘇る。
あの公園は、五月頃になるとアヤメの花が咲き乱れる。青く深い色がまるで海のようで、風に揺られては芳しい匂いを放っていた。そうだ、玄関の花も、手紙のあの匂いも、すべて、あの花だった。


「う、え゛え゛…っ」


込み上げてきた酸味を耐えることができず、そのまま近くのごみ箱の中に戻した。頭がぐらぐらする。そこら中から、あの五月の公園の匂いが立ち込めている気がした。
ゴミ箱にとめどない涙が落ちていく。喉が灼けついて、また、胃が引きつく。
嗚咽ともとれない声が、漏れている。
――冷えたコンクリート。廃材が重なる。大きな影。荒い呼吸。
初夏の生温かい風。渇いてざらついた温い体温。鋭利で、硬質。嗄れた声。
だめだ。思い出しては、いけない。
何十にも蓋を。幾重にも羽二重を。深い底に沈め落として。


「……っグラ、ンファ」


頭が痛い。ベッドから腕が放り出されたままに、そのまま綯い交ぜになっていく脳髄の不快感に意識が沈んでいった。



覚えていることがある。出久はきっと、忘れてしまっているだろう。彼が何百回と呟いてきた本音を拾い集めるたびに、それらが名前に向かないように、それらのすべての要因が、同じ胎の中で育った名前にあったのだという事実に気づかないように、集めては包んで沈めていく。


『どうして、僕には、個性がないの…』


泣きじゃくる丸い背中。それをさする母の柔らかい手。


『どうして、お母さん』


どうして、と何度も何度もぐずる声が、反響する。母の所為でも、出久の所為でもない。彼らの所為などでは、ないのだ。


『ねえ、名前も、いっしょ……?』


ゆっくりと振り向かれる顔。似たような両目が、名前を捉えて離さない。
焦がれていたものに近づくことができないと砕かれた夢。せめて、それがただ一人だけではないのだと、期待する眼差し。
一緒だと、唇が象る。名前の喉を塞ぐ言葉が、呼吸を滞らせていく。一緒だったんだねと落ちていく出久の声が、冷えた指先を掴んでいる。


『でも……名前は嘘吐きだね』


唐突に降ってきた低い声に振り返る。そこにいたのは、雄英の制服を着た出久だった。ぼろぼろにひしゃげて赤黒く染まっている右腕を片手で支えながら、その掌を見つめている。


『名前はずっと、僕に嘘ばかりついてる』
『君のその嘘の所為で、私は、もうあの場所にはいられなくなってしまったのだ』


もう一つの声が背後で弾けた。白い背景にぽつりと佇む、腹から血を流し続けるグランファの姿。彼の足元に鮮やかで濃い赤が広がっていく。じわりじわりと、名前のもとにまで染みていく。
染みていきながら、深みを増していく赤の水面が揺れた。急に足場を無くした名前の身体は、ずるずると底の知れぬ赤の海に沈んでいく。首まで浸かったところで、出久の変色した手が柔らかく頭を撫でた。


『名前のせいだ』


とぷりと、生ぬるい海に沈んだ。



     *     *     *



グラントリノの事務所には、新幹線で四十五分という道のりだった。本当は、名前の今の状況をオールマイトや相澤に伝えておけばよかったのかもしれない。けれど、相手が不確定で彼女自身が何も話さないので、伝えるべき内容が宙に浮いてしまっている。それでも、一人にはさせたくない。山梨の県境に入る少し前に、今どこに居るのかというメッセージには、既読のみがついていた。
職場体験の一日めが終わり、グラントリノが寝ている間に事務所の裏手に回り込む。個性の使い方を考えながら、返事のない携帯のことが気がかりだった。
ぼろぼろになりながらも床に就き、二日目を迎えた朝。通知はなかった。離れた距離を慮るための機械だというのに、全く意味をなしていない。母から連絡がないということはつまりは無事だということなのだろうから、画面をロックしてポケットに仕舞い込んだ。
その後は、フルカウルを常時纏ったままの訓練は疲労度も桁違いで、戦っては打ちのめされてを繰り返している内に夜も更け、目が覚めて気付いたら朝になっていた。


『ごめん、いま、ずっと家にいる』


朝、歯を磨きながら何気なく見た画面に、漸く彼女の名前が表示されていた。
――出久、ごめんね。
二行目の謝罪の意図が分からない。ごめんねと、脳裏で、口を押えてただ俯いてばかりの彼女の姿が浮かんだ。

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