それから、数日が経った。
出久だけが知らなかった過去は、誰にも聞くことができないでいた。誰かに聞くことができずとも、差出人の思考はおおよそ見当がついてしまったのだ。
グランファが引退する引き金となった事件が、六年前のとある誘拐事件だった。敵が拉致、監禁した被害児童は、グランファによって速やかに発見され、救出が試みられた。その最中、何らかのアクシデントによりグランファは重症を負い、引退を余儀なくされ、敵や被害児童への聴取は執り行うことができず、事件は幕を閉じた。
敵は現在も拉致監禁及び殺人未遂で服役中である。
そして、この被害児童というのが紛れもなく名前であった事実が、差出人が憤る理由となっているのだろう。グランファをヒーローという舞台から引きずり下ろしたのは、件の敵ではなく、名前だったのだと、そういいたいのだ。
――グランファの傷は敵の個性によるものだと判明している。ネットの情報を頼るならば、敵の個性は体毛を硬質化させることで全身から棘を出すことがができたという。その棘こそが、グランファを重症に追いやったそのものだったのだと。
真相は分からない。そして何故、その話を出久が全く知らないのかも、分からない。九歳だった頃の話だ。記憶が曖昧になっているわけではなく、純粋に、その出来事自体を知らないのだ。
「緑谷君」
古典の教科書が、風にあおられてページをめくっていく。
何も知らないまま、ヒーローになりたいのだと言い続けていた。ヒーローに救けられて、そのヒーローが傷ついていることを、名前はずっと、自分の所為だと責め続けていた。どこも彼女の所為などではないのに。そんなヒーローを見ていたから、出久が怪我をするたびに、青ざめた顔をして、それでも、応援してくれていた。
「緑谷君」
「――っ!? は、はい!」
大きな影が机に落ち、灰色の角ばった手が視界に入って初めて気が付いた。
「珍しいですね、君が授業中に呆けているなんて」
「す、すみません…」
「それでは、七十八ページの冒頭から、読んでください」
見上げれば、セメントスが目を細めていた。早く読んでと急かされた声に慌てて立ち上がり、めくれたページを開き直す。行き行き重ねてから始まる漢文を目で追っていきながら、消沈していく肩をどうしようもできないでいた。
終業のチャイムが鳴り、課題を進めておいてくださいねと残したセメントスの言葉に、上鳴の悲痛な声が上がった。
「まじかよー後で教えてくれ爆豪……あっ、そういや次のヒーロー基礎学って運動場だっけ?」
「いい加減てめえ一人でやれ! いちいち聞いてくんじゃねェ!」
「基礎学は教室でやるって言ってたわよ。なんでもプロヒーローが来てくれるみたい」
上鳴が爆豪の机に寄りかかりながら、課題のプリントを広げようとする。あの形相の爆豪に懲りずに向き合う彼は相変わらずで、そこに切島も加われば顔面に青筋が増えていくばかりだった。
蛙吹の言葉に麗日や芦戸がにわかに騒めき立つ。教室で行うということは、六限目あとはすぐに帰ることができるだろう。メッセージに名前の名前を見つけて、その旨を伝えればすぐに既読がついた。
――言葉で伝えることが、どれだけ辛かったかなど想像に難くない。六年経ってもあの表情をするのだ。もしくは、漸く落ち着いてきたところにあの封筒が出てきたことで、ぶり返したのかもしれない。それでも、知らなかったという事実だけが、重くのしかかってくる。だからといって、ヒーローになりたい出久の気持ちが変わるわけではないのだが。ステインの事件も、より酷い怪我をして帰ってきていれば、彼女をもう一度傷つけていたのだろう。
先日のオールマイトの言葉が、胸に沈んでいく。
「――私が来た!!!!」
「っオ、オールマイト!」
六限目までまだ時間がある中、A組のドアから文字通り飛び出してきたオールマイトは、笑い声をあげながら教卓まで歩いていく。まだ休み時間の空気だった生徒は自分の席に戻りながら、オールマイトを見上げていた。
「オールマイト先生、今日の授業は何をされるのでしょうか」
右列後方座席の飯田がすっと真直ぐに綺麗な挙手をして、いつも通りの質問をあげた。オールマイトは、ちらと出久を見遣る。そうの意図を図りかねて小首を傾げても、彼は言葉を重ねなかった。教卓についた両手は、拳を握っていた。
「今日は、急遽予定を変更して、プロヒーローに来てもらっている」
ざわついた教室を彼は見渡して、両手を広げた。
「先の職場体験でも、皆いろいろな経験をしたことだろう。ヒーローという職の厳しさ、華やかさ、思うことは様々だ。そこで、君たちに話しておかねばならないことがあると思ったのだ」
「話しておかねばならないこと…?」
「そうだ。ヒーローはいつだって命がけだ。だからこそ、復帰も危ぶまれるほどの大怪我を負うことだってある。今回は、それを教訓にしてほしい」
麗日たち数人の声に頷いたオールマイトは、今しがた入ってきたドアに再び近づいた。彼は外にいるらしいそのプロヒーローに合図を送ると、半開きのドアを全開にした。ぎぃ、と、ゴムか何かが、廊下で滑る音がした。
「――初めまして。
年季の入った車椅子だ。痩せた体躯にこけた頬が、トゥルーフォームのオールマイトを思い起こした。中年程の男性は、ひどく柔らかな笑顔を浮かべて、頭を下げる。白いワイシャツが余計に、肩を小さく見せていた。
炭谷といった男は慣れた手つきで教卓の隣に移動し、くるりと車輪を回転させて全員の方に向き直った。
そうして、全員の自己紹介が始まった。
青山から始まった自己紹介に、彼はひとりひとり丁寧に挨拶をしていた。その表情や所作から、穏やかな人であることは容易に想像がつく。彼がサイドキックを引き連れているようなヒーローであるなら、誰彼にも慕われるような人格者だろう。
「緑谷出久です。よろしくお願いします」
宜しく、と少しの間の後返された言葉に、何故だか懐かしさを覚えた。
全員の自己紹介が終わったところで、彼は細い指を肘置きにかけて少し身動ぎをする。その一挙手でさえ、やっとというようだった。
「皆の貴重な時間だ。早速、話をしようか。私は、オールマイトと共に学生時代を雄英で過ごし、そして、六年前まで、プロヒーローとして働いていた。当時は、そう――グランファと、呼ばれていた」
ガタッ
立ち上がった衝撃でキャスターが派手な音を上げる。クラスメイトの視線が一気に集まるも、そんなものを気に留める余裕などどこにもなかった。
言葉が、喉の奥で詰まって咄嗟に声が出なかった。
グランファ――いや、炭谷は淡く微笑んで、「ゆっくり落ち着いて話をしようじゃないか、緑谷君」といった。オールマイトは腕を組んだまま、何も言わなかった。
「…すみません、」
「――カーボニウムヒーローグランファといえば、硬質化するヒーローで、ビルボードチャートでナンバー二十三だったヒーローすよね?」
「おお、光栄だなあ。今の若い子にも覚えていてもらえるなんて」
にこにことしている表情に、誰しもが気を抜いていた。切島が、自分も個性が硬質化なんでと笑った声が、やけに響いて聞こえた。
すとんと腰かけた椅子が冷たい。彼は、オールマイトを見てから、気を取り直すように咳払いを一つした。
「私は身体の中にある炭素で表面を硬質化させる個性を使うことで、火災や倒壊の危険のある現場に赴いてきた。当然、ヒーローとして生きていく上で、いずれどこかで命の危険を顧みる、そんな瞬間があるだろう。――今日は、その瞬間の話をしようと思ってね。そして、将来有望な、希望ある君たちには、同じ轍を踏んでほしくない。だからこそ、私のこの思い出話を、教訓にしてほしいのだ」
その前に、と炭谷は車椅子の後方ポケットから、オレンジジュースを取り出した。
「そうそう、私は膵臓の機能が悪くて、定期的に糖分を取らないといけないんだ。途中飲みながら話すが、気を悪くはしないでおくれ。本当は甘いもの好きじゃないんだけどね、これがないと低血糖で倒れてしまうから――と、話がそれてしまったか。いやあ、何から話せばいいのやら、こういうふうに喋るのは苦手で」
あっけらかんとした笑い方は、オールマイトに似ている。その人柄に、思わず吹き出してしまった笑い声を拾った。恐らく、麗日あたりだろう。要領を得ない話に、目の前の爆豪の苛立ちが募っていくのを横目見る。
――彼が、名前を救けたヒーロー。想像もしていなかった姿で、楽しげに笑う彼。名前が背負っている苦しみは、本当に彼と関わりがあるのか猜疑するほど、その表情に差がありすぎた。
「グランファ、そういうところは、君の悪いクセだよ」
「お、そうだな、すまない」
オールマイトの呆れ笑いに、彼も笑った。そして、オレンジジュースを一口、口に含む。
「よし、真面目な話をしよう。その瞬間というのが、今から六年前の、ある誘拐事件だった――」