33
その日は、四月も半ばだというのにひどく蒸し暑かったのを覚えている。
――朝の十時頃に流れる天気予報では昼すぎに夏日の気温となり、汗ばむ陽気となるでしょうとキャスターが笑っていた。そのテレビを見てから、事務所を出て行くことが日課となっていた。
駅一つ分向こうの公園に行くことが彼のパトロール経路の折り返し地点であり、休息所でもあった。
四月も半ばになると、その公園は外周をアヤメの青で埋め尽くされる。とくにこのところ日中は暑いくらいの天気が続いていたので、花も時期を間違えているようだった。一帯に、独特の花の匂いが漂っていた。
中央に背の高い時計塔を模した滑り台があり、ブランコやら砂場やらジャングルジムやらと、この辺りでもそれなりの広さを有している。
木陰に隠れるベンチに腰を掛け、ポシェットから取り出した無糖の炭酸を喉に流した。
「今日はあついですね」
ベンチの背もたれから身を乗り出してきた少女が笑った。白いワンピースと対称的な、夏の生い茂る碧を彷彿とさせる髪を高く結わえて、器用に背もたれから足をかけて飛び越えると、すとんと隣に座った。
「こんにちは、名前。昨日遊んでた子たちとは、今日は遊ばないのかい?」
「――無個性だとつまらないって、」
彼女は大抵、この公園にいた。一人でいることもあれば友達と遊んでいることもあったが、今日は前者だったようだ。彼女、緑谷名前は、第五世代にしては珍しい無個性で、幼い頃からそれを理由に喧嘩と仲直りを繰り返していた。
子供の世界は時に刃のように鋭い。臆さず、それでいて意味を考えない言葉の羅列がどれだけ他者を傷つけるかを知らないのだ。
彼女が何度もそれを経験しては乗り越えているのを知っているので、グランファはそうかといって、名前のまだ小さな頭を撫でた。
「名前、君はやさしいね」
「……言い返さないから?」
「そうじゃない。ただ相手の言うことを黙って聞いていることを優しさだとは私は思わない」
炭酸のペットボトルの、膨張する音が弾けた。
時刻は四時を回っていて、少しばかり冷えた風が吹いている。
「相手が非を認めて素直に謝ってきたときに、それを許してあげることができる。また友達として付き合っていくことができる名前の心を、優しさだと言わずして何と言おうか」
「――ゆるせないときだって、あるよ」
「そういう時は、自分に嘘を吐いてはいけない。何故許せないのか、考えてみればいい。君は賢い子だから、きっと、答えを導けるはずだよ。もし答えが分かったら、相手ととことん、喧嘩すればいいさ」
はははと笑い飛ばせば、名前はつられて笑っていた。
幼い頃から、彼女の姿を知っていた。こうして成長していく姿を見守っていくことができるヒーローという職業を、誇りに思っていた。彼女はヒーローをよくは思っていないようだが、それは純粋に彼女の優しさの所為であると思うくらいには、すっかり親心にもなっていたのだ。
取り留めもない話を続けていれば、長針が六を指し示している。そろそろ事務所に戻らなければ、サイドキックたちから終わらない通知音のラッシュが来る。
そろそろ帰ろうかと腰を上げれば、彼女もそれにならって帰路につくようだった。
「送って行かなくて大丈夫かい?」
「大丈夫! だって、家もすぐそこです」
彼女の家と事務所へと帰る道は残念ながら正反対だったので、十字路の見えなくなるところまではと手を振る彼女の背を見つめていた。
一つ目を渡り切った時、歩行者信号が赤になる。方向を変えて立ち止まる名前の姿にほっとして、右から来る白いバンの鈍さが気になった。
彼女との距離は百メートル程離れていて、一度背を向けていた足を、名前の方へと向き直した。
白いバンが、交差点に進入する。時速は恐らく四十キロメートルも出していないだろう。
交差点を走り抜けた白いバンの先には、誰もいなかった。
――グランファの個性は、身体が硬質化することだった。いくら地面を蹴ったところで、加速をもたらしてくれるようなものを、持ち得てはいなかった。
「名前!!!」
――彼女に背を向けていれば完全に気付かなかった。
白いバン。ナンバーも一部捉えた。
後悔は、しても役に立たないと知っている。したところで意義がない。
胸ポケットから取り出した携帯で事務所に繋げば、ワンコールもしないうちにサイドキックが出た。
「誘拐だ。急ぎ警察に連絡と出動準備をしてくれ。場所は――」
驚くほど冷静な自分の声に、より事態を俯瞰していくようだった。
児童の誘拐は最初の三時間で発見できなかった場合、命に関わることが多い。車種、ナンバー、逃走方向を伝え、一度電話を切り、片耳に装着した無線に切り替える。
脳内で周辺一帯の地図を描く。住宅地が多く、空き家になっている個所は既に更地になっているはずだ。二キロ先に工事現場があるが、確か半年前から経営難により事業が破綻、中途半端に残されていたと思う。その他白いバンの拠点が持ち家である可能性は否めないが、まずは目的地をそこと定めて移動を開始した。
十分ほど経った頃、警察への対応を任せていたサイドキックから連絡が入った。
「現在警察に協力要請を出しました。車種、ナンバーから特定し、防犯カメラから追います。詳細が分かり次第、追って連絡します」
「分かった。GPSを私とカイトに送ってくれ」
「了解。あと五分から十分程度の時間をください」
動物の個性や索敵に有用な個性を持っている者は多くはない。事務所に抱えるサイドキックも、スピードやパワーに自慢はあれど、捜索には不向きだ。
だからこそ、警察との連携が不可欠だった。サイドキックのうち、スピードに特化したカイトも事務所から動いているのが携帯で確認できる。彼らの位置は互いにGPSで把握済みで、あとはここに敵のポイントが出現すれば片が付くはずだ。
右耳で事務所と連携を取りつつ、左耳の無線で周囲のヒーローに情報共有を図る。誘拐が名前だけでない場合、二人で対応するには少なすぎる。隣町から範囲を広げて静岡県のヒーローに掛け合ってみるが、そのような通達はない。ということは、恐らく被害者は名前のみの単独犯。
「――グランファ。防犯カメラから追いましたが、既に白のバンを放棄しているようです。索敵続けます」
「っ、敵の判断が素早いな…分かった。引き続き任せた」
敵の情報は、そこでいったん途絶えてしまった。
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