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「――というわけで、敵に背後をとられ、情けなくも腹を貫通した怪我の後遺症のため、個性が使えなくなってしまった。結果、ヒーローを引退し、今は事務所の経営に携わっている」


話し疲れたのか、炭谷は背もたれに身体を預け、オレンジジュースを飲み込んだ。


「――あの時の私の失態は、仲間を待たず、単身で乗り込んだことだ。直に現着することは分かっていた。そうであれば、機を狙いながら戦うことも時には必要だっただろう」


そして、と彼は言葉を継いでから、口を噤んだ。遠くを見るようなその目を、蛙吹であったら、後悔だと言っていただろう。


「そして……その子にとっての、ヒーローになれなかったこと、だ」


身を呈して救ったヒーローを、世間は褒め称えたという。ヒーローとしての職を辞することになろうとも、彼が行った行為は正しいことで、被害者となった児童も救われたと。


「――教訓にして欲しいといったね。君たちの中で、もしかしたら、ヒーローは傷つくことが当たり前だと思っている子がいるかもしれない。けれどそれは、大きな間違いだ。その子は、何故、無関係な人を救けるために、無関係なヒーローが傷ついていくのかが分からないと言った。その子を救けようと動いた私のこの傷を、その子は悔やんだ。救けを呼ばなければ、この傷を負わなくても良かったのだとさえ言わせてしまった」


彼は、そう笑いながら、泣いていたのだと思う。何度も何度も、心の隅で、泣いていたのだと思う。
オレンジジュースを包むその細い指先は青白く、炭谷は固唾を飲み下してから言った。


「誰かを救けようと思ったとき、君たちはできるだけ無傷でありなさい。傷の多さが、君たちをヒーローたらしめるわけではない」


彼の張り詰めた声が、教室に響いた。
もう話すことはないよとオールマイトを見上げた炭谷は、少し休憩を取ろうと提案する。五分だけ休憩を取ったあとに、折角だからと質問とシンキングタイムにしようと笑った。
――グランファを呼ばなければ。彼女は、そう言っていた。目の前で大怪我を負ったグランファの傷の深さを彼女は知っている。
彼は相手の個性が棘状のものだと知っていた。尚且つ、硬質化すればそれらの攻撃の一切が効かないことも分かっていた。人命救助は、ヒーロー活動をする上にあたって基本であり、敵に背を見せることが悪いことだとは思えない。逃走もひとつの手段である。
白の薄いカーテンが風に揺らめく。出久の机が、日差しでじりじりと焼けていた。


「よし、では続きといこうか。どんなことでもいい、聞いておきたいことは、あるだろうか――」
「あの、ひとつ、いいですか?」


丸みを帯びた瞳が、出久を映す。彼は柔らかく頷いてみせた。


「――何故、硬質化をしないで、背を向けたんですか? 硬質化しながら戦うことが出来るのであれば、そのまま走ることだって勿論出来たはずです」
「焦って、判断を誤っていたんだ」
「本当ですか?」


おい緑谷、とどよめいたクラスメイトの声が上がった。
――炭谷を責めているわけではない。
名前宛に届けられた手紙の執着。差出人が、ネットの情報通り、炭谷の話通り、この事件を調べていたとすれば、名前は紛れもなく、ただの被害者だ。それだというのに、まるで名前が何かをしたせいでグランファが引退する羽目になったのだと、そう言わんばかりじゃないか。そう思っていたい差出人の勝手な考えなのかもしれない。それでも彼女も、それを否定するどころかそうであったのだと言っている。


「――本当は、何かが、あったんじゃないんですか、その時に」


彼が硬質化を解いてしまうような、不測の事態。
そう仮定すれば、名前があそこまで追い詰められる理由が、分かるような気がするのだ。
炭谷は驚いたように目蓋を持ち上げたあと、笑った。


「――ヒーローが一瞬でも躊躇すれば、自身の傷は増え、犠牲は増えていく。私はあの時、目の前で起きた出来事に躊躇った。それだけだ。緑谷くん、君が恐れているようなことは、何もなかったよ」


彼の微笑みの後、カチリと時計の針が動き、校内放送から聞き慣れたチャイムが鳴り響いた。


「ん? ああ、そうか、高校生の授業時間は五十分だったか」


しまった、と彼は顎に手を添えて逡巡すると、相澤先生が来るまでここにいようと言った。
授業ではないから好きにしようかとも続けた彼の言葉に、切島を筆頭に人集を作る。和やかな雰囲気で話す彼の言葉が、出久の頭を小突いていくようだった。


「――緑谷少年」


窓際に立っていたオールマイトが、時計を見ながら少し噎せた。彼の活動限界までもう少しのようだった。


「どうか、彼の後悔を、晴らしてはもらえないだろうか」
「! ――どういう、意味ですか」


ゴホっと本格的にむせ始めた彼は、いつものように二三言発言しては脱兎のように駆けていった。
――この時、出久は名前にすぐに終わるというメッセージを送っていたことを完全に忘れ去っていた。

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