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目の前に、全てを知る人がいる。
やはり、彼らの間に何かがあったのだ。それがたとえ、知らない方が良かったということであっても、知らないまま、何も気づかないふりをしたまま、彼女とヒーローになりたい自分が隣り合って過ごしていくことは無理だった。
しばらくして相澤が来たが、彼は教室の状況を見るとこのまま解散にするといった。職場体験に感化されたのか、炭谷の過去の事件も含めて、より良い解決策を考案していた切島たちの頭を叩いて、普通の授業でもそれだけ頭が働けばなとこぼしていった。
ーークラスメイトを前にしているからこそ、事実を言うことができないのだろう。ヒーローにも守秘義務が存在している。だからこそ、何かはぐらかさねばならないことがそこにあるという証拠だった。
時期を見計らってと考えていたが、散開しそうにもない。どうしたものかと机の上の指先を握り込んで、暫くも経たないうちだった。
「なら、この時は――」
誰かの声に紛れて、何かが落ちた音がした。
ドアに近かった芦戸の朗らかな声が、いやによく響いた。
「名前ちゃんじゃん!」
「――なんで、」
炭谷はゆっくりとドアの方を振り仰ぐと、今までで一番柔らかく、それでいて、崩れているような、そんな顔をしていた。
彼女は足元でくたびれるカバンの紐を踏みつけて、前に転びそうになったのをこらえる。俯いた顔が、髪に隠れてよく見えなかった。
「――ああ、普通科だったのか、てっきり、君の個性ならヒーロー科、に」
「炭谷さん!!」
ざわついていた空気が、一気に強ばったのを感じた。
立ち上がった勢いで、出久のペンケースの中身がばらばらになって床に落ちていく。
――君の、個性なら?
床に転がるペンを踏んだ。
「……名前、どういう、?」
唇から転がっていく言葉が、まるでちぐはぐなパッチワークのようだった。
頭の中で、幼少からの記憶がふつふつと浮いては沈んでいく。
「ーーはっ! やっぱり、嘘だったんだろ、無個性なんてよォ」
爆豪が中身の薄そうなカバンを肩にかけながら、嘲るようにそう言った。その言葉に名前は胸元のネクタイを握り締めながら、泣き叫ぶように否定した。
「違う! 無個性なの! わたしは、ずっと、」
「んじゃあおっさんの勘違いだったってか? 個性があるってのを証明する方が簡単に決まってんだろーが!」
それこそ悪魔の証明だ。
爆豪と名前の言葉の応酬が不毛であることくらいわかっている。いや、問題はそこではない。いや、無個性ではなかったことが、そもそも問題だったのか。誘拐された子供が名前だったことが、グランファが癒えない傷を負ったことが、言えない何かがあったことが。なにが一体、この状況に繋がる問題だったというのだ。
――ワンフォーオールは、オールマイトから授かった個性だ。だからこそその個性は両親のどちらにも寄っていない。母は物を引き付けることができる。父は口から火を吹くことができるという。
炭谷の詰めたワイシャツの襟元から覗くそれは、火傷だった。彼は火災現場の救出にも駆けつけている。それはその時のものなのだろうと、思っていた。
脂汗が、こめかみを伝う。
彼が、硬質化を解いてしまうような不測の事態。硬質化を続けていれば、起こらなかったであろう結末。名前宛の手紙。無個性ではなかった名前。無個性だと言い張る名前。
名前は、爆豪の言葉に何も言えなくなって、口元を手で覆った。両手で声の一つもこぼさないように、塞いでしまうように。
――何か言いたいことがあるときや、それらがうまく言えないとき、吐き出せない何かを押さえ込むように、彼女は口元を手で覆っていた。長い間の癖だった。
「……名前、お父さんの、個性だったのか…?」
踏みつけていたペンが、折れた。
「っ」
「名前!」
名前は足元に落ちたカバンを拾い上げて走り出した。
教室を飛び出した背中を追いかけようとして、追い詰めた一言が自分の言葉だったことに気がついた。
四歳を迎えてからずっと、彼女は無個性だった。無個性だった出久に合わせて、彼女も無個性で有り続けた。
「それで……その時に暴走したって、そういうことですか」
炭谷は何も言わなかった。
彼が予想もしていなかったのは、抱えて走っていた名前の個性が感情の混乱により暴走したこと。そして、硬質化が解けたかあるいは緩んだ背部からの一撃に堪えきれなかった。結果、彼のヒーローとしての人生は途絶え、実生活にも影響を及ぼす後遺症を患った。
「猿芝居かよ」
爆豪は鼻で笑ってカバンを背負ったまま、静まり返ったA組を横切って帰っていった。
「……それを、どうして、今こんな形で」
炭谷の後悔に名前がいる。名前の後悔に炭谷がいる。その先に彼女の個性がある。こんなふうに乱暴に、無個性だと張り続けてきた嘘を引き剥がしてしまった。無個性で有り続けたかった名前の思いをかなぐり捨ててまで、すべきことだったのだろうか。
必死に、ここ最近の彼女を見ていて、壊れないように、それでも――。それでも、ヒーローになりたい夢を叶えるために、彼女の抱えている秘密が知りたかった。それはなんて利己的なことだっただろう。彼女の秘密がヒーローによるものだとすれば、ヒーローになりたいと願い続けることなどできようはずもないと思った。それは裏を返せば、ヒーローでありたい夢がために彼女の秘密を暴こうとしていたのではないだろうか。
つうと脂汗が顳顬を伝った。
「…デクくん」
「――彼女の個性は、まるで、三歳児に着火しやすいライターを持たせているようなものなんだよ」
折れたペンを、麗日が拾っていく。
「個性は身体機能の一部だ。自分の身体の中に存在するものを、否定しながら生きていくことはできない。そんなもの、どこかで破綻してしまう」
誕生日に揃えて買ったペンケースを、彼女が机の上に置いた。デクくんと呼ばれた声にはっとすれば、手にはカバンを持たされていた。早く追いかけてと、彼女の目は急かしていた。
「彼女に恨まれてでも、君にはどこかで、こんな話をしなければならないと思っていた。それが今日であったことは私も思ってはいなかったけれど……まあ、彼女がヒーロー科に入るわけが、ないんだけどね」
猿芝居だったかと、彼は困ったように項を掻いていた。
「……炭谷さん……グランファ、有難うございます」
無個性だろうが有個性だろうが、そんなものは瑣末なことでしかない。名前はずっと、名前にしかなれない。出久はずっと、出久にしかなり得ない。
彼女はたった一つ、きっとずっと、勘違いしていることがある。
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