37
誰かの肩にぶつかって、その度にカバンを取りこぼしそうになりながら、駅とは真逆の方向に、どこかも分からない道を走り続けていた。
ーー四歳の誕生日を迎える数週前の夜。
唐突に、喉の不快感を覚えた。風邪を引いたときのような、あのいがいがとした異物がそこにある感覚。そして、耳の下がやけに熱く、飲み込む唾液がいつもとは違う味がしたのを覚えている。
夜中に洗面所に立って何度うがいをしてみても、それらはなくならず、次第に噎せ始めて、何度も、何度も、えずいて、そうして、最後に吐き出した血のような何かが混じった唾液とともに、口からぼわっと小さな炎が現れて瞬時に消えてしまった。
その後にすぐ母が来て、なんだか喉がいがいがしたのだと笑ってみせたのが、恐らく一番最初の嘘であったと思う。父が口から火を噴く個性だということは知っていた。自分自身のそれも、きっと父の個性を継いだものなのだろうということはすぐに見当がついた。
――出久にもそのうち個性が現れるだろう。彼の個性が発現したら教えてあげようと、その時はまだ黙っていたのだ。
それから何日と経っても、四歳の誕生日が来るその日までに出久に個性が芽生えることはなかった。
オールマイトのようなヒーローになりたいと願っていた。
オールマイトのような個性に憧れていた。
それなのに、彼は最後まで、無個性だった。
『名前も、いっしょ……?』
病院から無個性を告げられた出久が、名前の顔を見ながらそう言った。
『…うん、わたしも、いずと、いっしょだよ…だって、わたしたち、双子だもん』
その日から、緑谷名前は、無個性だった。
無個性の双子は、確かに好奇の目に晒されたが、一人ではないから、何ともなかった。ただ、出久だけはどうしたってヒーローになることを諦められないから、名前よりも馬鹿にされることが多くなっていった。
何故、ヒーローを願う出久には個性がなかったのだろう。何故、名前には個性があるのだろう。
出久と名前に、大きな違いなどないと思っていた。そばかすとひどい癖毛とヒーローが好きなことは同じではなかったけれど、たったそれだけだ。運動も、勉強も、好きなものも、嫌いなものも、同じだったのに。
――個性だけは、知られてはいけない。無個性であり続けなければ、出久にきっと嫌われてしまう。だって、個性が欲しくてほしくてたまらなかった彼には、個性がなかったのだから。
ああでも、彼に個性がなくて、本当はーー。
雄英高校からどれだけ走ってきたかわからない。
団地の中央にあるブランコとシーソーがあるばかりの寂れた公園のベンチを見つけて、どさりと腰を落とした。
空はまだ一向に暮れる気配はなかった。少しばかり増えてきた雲の切れ間から覗く太陽が長くのびる影を作り始めている。
――無個性の名前は崩れた。ずっと秘密にしていた。ずっと厚く重ね続けてきた嘘だった。
出久に嫌われたくなかった。こんなものはいらないと否定をし続けてきた。それでも、個性はなくなってはくれなかった。怒ったり、泣いたりすると熱いそれを吐き出しそうになってしまうから、口を塞いだ。それでも、消えてはくれなかった。無個性だと周りにも言っていた。そうしたら、グランファは突然の炎に身体をまかれて、胸元に火傷を負った。背中に一撃を受けた。彼は、なりたくて仕方がなかったヒーローをやめた。
名前の個性は、誰かを不幸にするものだと知った。
「――こんにちは、緑谷名前さん」
* * *
名前を追いかけるように雄英高校を飛び出した。
恐らく彼女は駅には向かわないだろう。駅とは違う方向の道を探し回っても、彼女の姿はどこにもなかった。
――小さい頃から、出久は名前を見つけることが苦手だった。双子だというのに、隠れん坊でも、彼女を最後まで見つけることができなかった。
双子なのにねと笑う名前は、ずっと一人で、個性を押し殺してきていたのだ。
走り続けていた足を止めた。街路樹の桜の木は疾うに葉が生い茂っている。葉の掠れる音が耳元を流れていく。彼女に追いついて、それで一体、なんといえばいいのだろう。
――救けてほしくなかった。傷ついてしまうくらいなら、救けなど呼ばなければよかった。それは、グランファにとってどれだけの痛みを負わせた言葉だっただろう。彼の傷が、その言葉でどれだけ深くえぐり取られたことだろう。誰かを救けたい一心で、ヒーローは動いている。その行動そのものを、彼女は否定したのだ。
(そんなの、)
グランファが彼女を救けたいと思った心を、否定してしまったのだ。それは、名前がしていいことじゃない。
――炭谷の話を聞いて、少しだけ思い出した。名前の帰りが遅かったときがあった。その日は母も夕方に一度出て行って、夜も更けた頃に包帯とガーゼだらけの名前を連れ帰ってきた。階段で転んじゃったんだってと言った母の言葉を疑わなかった。知らなかった。母も言わなかった。名前も言わなかった。大丈夫だと言っていた。どうしてあの時、気付けなかったのだろう。
再び、走り始めた。
出久のために無個性であり続けていたというのに、唐突に個性を手に入れてしまった出久のことを、彼女は本当はどう思っているのだろう。頑張ってねと笑っていた名前の本心は、一体どこにあるのだろう。
――双子なのに、全然、分からない。
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