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「私とグランファの出逢いは…ああ、もう十年にもなるのか…、当時、私はフリーライターの仕事をしていた。まあ良い給料とは言えなかったが、母ももう若くはないからと、共にマンションに移り住んだ頃だった」
男はとうとうと自分の話をし始めた。
目を覆われ両腕の自由は効かず、動く足はあるが逃げ道も分からない状況で、身動きの一つとれなかった。
――公園で出くわした男の顔を、その時はよく思い出せなかった。恐らく、無意識の自己防衛だったのだ。自分に向けられる怒りを受け流せるほど、名前は強くはなかった。
オールバックに固めた髪。グレーのジャケット。マスクをしているせいで眼鏡が少し曇る。曇りが気になるのかマスクを鼻の下まで下げた男が上機嫌にこんにちはなどとあいさつをしてきたものだから、不気味になって背を向けて早々にどこかへ逃げようとしたその時だった。強く熱い手が、左肩を掴んで離さなかった。体温が高いなどとそんな生温い熱さではない。まるで火にくべられたフライパンでも押し当てられたかのような刺激に咄嗟に振りほどいた手は捕らえられ、口と鼻に宛てられた布に染み込ませられた匂いを吸って、そこからの記憶はない。
そして、目を覚ましたらこの状況が出来上がっていたのだ。
――この男は、体育祭の時に声をかけてきた記者だ。グランファを尊敬し、そして、最後の事件の真相を知りたいのだと言っていた。差出人のない手紙も、玄関にまき散らされたアヤメの花も、全部。
胃の奥から込みあがってくる酸味にえずいた。思い出したくない。あの日のことはもう、思い出したくない。
そうだ。けれど、彼を心から尊敬していて、そんな彼をヒーローとして殺したも同然の名前が、男の何を否定できるのだ。男の怒りの矛先に間違いなどない。正しかった。
「どうした、水でも飲むかな?」
そうして腰を上げる音を立てた男にいらないと首を横に振る。
「そうか…。まあいい。話の続きをしよう。他でもない君に、聞いてほしいのだ」
再び深く腰掛けた彼は、一つ長い溜息を吐いて、恐らく、笑った。
「丁度夕方時だ。仕事場に一本の電話が入って、母が亡くなったことを知った。原因は、夕食を作るコンロからの出火による火災に巻き込まれたからだという。……火元は母ではなかった。けれど、私が四階を選んだばっかりに、母は逃げ遅れたのだ。後悔したよ。したところで、母の遺骨を見て虚しくなった。けれどね、そのマンションには五十人近くがいたのにも関わらず、亡くなったのはたった二人だけだ」
男は話の区切りごとに、長い溜息を吐いていた。
「グランファは、多くの人の命を救った。母は救われなかったが、それでも、私は彼を恨んではいない。何故なら、彼は確かに母を救うことはできなかったが、その他大勢を救ってみせたのだ。責められるべきいわれはない。そう、思った」
ぞわりと背筋が粟立った。彼は嬉しそうな声で、拍手を交えながらそう彼を湛えている。そうだというのに、静かな怒りが足先から這いずるようにのた打ち回っている感覚がおさまらない。
今の話は十年前に起きた事件だ。その成果を称えられ彼はビルボードチャートでナンバリングを大きく前進させたが、それを喜んではいなかった。彼はその時出席せず、追悼文を出している。
二人の命を背負って生きていた。知っていた。だからこそ、名前を救けて負った傷の深さを、赦せなかった。多くの人を導いていくはずだった。グランファはオールマイトにだって負けないヒーローになるはずだった。それを壊してしまった。
そんな名前を、男も赦さないでいてくれていた。
「君がいなければ、グランファは終わらなかった」
彼は正しい。
軋んだ金属音。革靴の足音が五歩。目の前で、衣擦れの音。
「分からない、分からないんだ私は。君をずっと見ていた。その後もずっと通っていた君を見ていた。グランファとしてではなく一人間として日々を積み重ねていく君を見ていた。何故、彼は君を招くのだ。君は彼の行動を否定し続けているずっとずっとずっと! 私は彼は素晴らしいヒーローだと今も思っている。なのに、身を挺して守られた君が何故彼を否定している君がいなければ彼はグランファであり続けていたというのに何故君が彼の隣で今日も彼と言葉を交わし否定し被害者のような顔をして何故!! 君がいなければ彼の生活は満ち足りていたものだったはずだ」
両肩を突然掴まれて、男は揺すぶった。
不意の動きに首がついてこず、頭が大きく後ろに落ちた感覚がする。ずるりと、目元の布が緩んだ。
「ッ――痛いいたい!」
「私は彼を誇りに思っている。だがらこそ、私にはわからなかった。母を救えなかったことは責めていないはずなのに、何故、君は身を挺して守られた? 何故、母は守られなかった? 彼がヒーローであるならば、君も母も、何一つ変りなどなかったはずだ。ならば何故、母は身を挺してでも守られなかったのだ」
熱い。痛い。彼の手のひらから伝わる熱が痛い。皮膚がどろどろに剥げていくようだった。
ずれた布から視界が一気に開けた。目の前に迫る男の顔は笑い顔とも泣き顔とも取れない表情に崩れている。彼の手の周りのワイシャツは焦げ落ちていった。
ばっと一度離される手。彼はへたりと地面に手を突いて、笑った。
「私の手は感情に左右されやすくて、すまない」
――目の前の男の全てがちぐはぐだ。
痛みと恐怖でぼろぼろとこぼれる涙がワイシャツに染みを作っていく。うず高く積まれたコンテナの山を背に、男はぬらりと立ち上がった。
ひゅと喉が細くなる。
――あの日も痛かった。全身を切りつけられて、騒げば串刺しにするぞと男が泣きそうな顔をして言っていた。怖くて怖くて、すぐにでもこんなところから救け出してほしくて。何度も何度も彼の名前を呼んだ。名前を呼び続けていれば、いつの間にか目の前に彼の姿があったのだ。
グランファ。救けてなんてもう言えない。
嗚咽がわなわなと震える唇から零れる。
真っ赤な溶岩を彷彿とされる両手を、男は天井に掲げて泣いた。
「ああ、やめてくれ、君が泣くほど私は苦しい。母も苦しかっただろう、何故、誰も、たすけてくれなかったんだ――」
「っあぐ!」
男は上から抑え付けられるように首元を両手で押し潰した。
熱い。苦しい。苦しい。息が、口からもれる。
いやだ。こんな個性もってなどいない。
かちかちと歯がこすれる。喉の奥から甘苦い味があふれ出す。焼ける。喉が、外側からも内側からも。
「っい、や」
「――ッソがァアア!!」
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