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「ねえ、炭谷さん」
出久は炭谷の顔を覗き込むように少しだけ首を傾げて、苦く笑ってみせた。
そっくりだな、と、炭谷は小さく零した。
「――名前」
彼の柔らかくなった皮膚が、布団から出ている左手に触れる。少しだけ冷たかった。
「何故、自分を救けたのかと、前に言っていたね。……私はね、君に笑っていてほしかったんだ。笑って、家に帰ってほしかっただけなんだ。だから君が、学校であったこと、出久君と喧嘩したこと、友達とのこと、いろいろな話をしに来てくれることが、嬉しかった。君の帰るべき場所に帰り、そうして日々を過ごしている君の話は、私にとって何よりも救いだった」
穏やかな陽だまりに似た声だ。お昼時の窓際に差し込む日差しのような声だと思った。小さい頃から彼のそんな声を聞くと、心の中のさざ波が凪いでいくような感覚に陥る。そういう個性なのだろうかと思った日もあったが、これが炭谷という人なのだろう。
炭谷は名前から目を離さないまま、言葉を繋いでいく。
「名前を救けることができたことに後悔はないんだ」
君を恨んだこともない。
一つ一つ、言葉を置いていくように彼は言い切った。
――君はそんな彼を否定し続けている。
あの男は怒りに震えながら、悲しみに打ちひしがれながら、不条理に頭を抱えながらそう言っていた。何故君ばかりいつも救けられるのだろうなと、意識が落ちる前に聞こえた声は、差異を探し求めていた。
違いなどないのだろう。偶然にも炭谷がいて、近所に爆豪が住んでいて、同じ胎に出久がいて。その不確かな事実の積み重なりの中で名前はここまで救われてきたのだ。
彼が倉庫まで駆け付けてくれたことも、救けようと決意した胸臆も、名前が個性を持っていたことも。それらの積み重なりのどれを見て見ぬふりをしたところで、足元は揺らいでいくばかりだ。当たり前だ。名前は名前で、炭谷は炭谷で、出久は出久だ。それらのどれとも混じることもできず、干渉することもできず、無関係でいられることもできない。だからどこにも、起きた事象のどれにも、目を逸らして決めつけることなんてできるはずもなかったのだ。
わかっている。けれど、この胸の奥に宿る蟠りは解けてくれない。
「――…う、でが」
「うん?」
「腕が、なくなったら、戻って来ない。死んだら、生き返らない、でしょ」
彼は黙って耳を傾けている。
彼の胸臆を否定することも見て見ぬふりをすることも決めつけることもできない。ただ胸に沸いた疑問は、これは、グランファたる彼を蔑ろにしてしまうのだろうか。
喉の引き攣る感覚にうまく発語ができない。何度も躓きながら、それでも炭谷は言葉を拾いあげていく。
「あの人が、言ってたの。身を、挺してまで、どうして、守られなかったんだって。でも、それは、おかしくないのかな? だって、ヒーローだって、痛いのに」
「――君は、いつまで経っても、優しいね」
彼は緩く息を吸って、スーツの袖をたくし上げた。
腕には轟の左の顔に似た酷い火傷の痕がまざまざと残っていた。
「…名前が幼稚園かそのくらいだった、まだ言葉も覚束ない頃に、あの公園にプライベートで行っていてね。その時に君は、この傷を見て痛くないのかと聞いてきた。覚えているかな?」
ふるりと首を横に振った名前に、炭谷は遠い思い出を追走するように天井を一瞬振り仰いだ。
「皆のヒーローだから痛くないんだよと言ったら、痛いのは皆一緒だと、君は半べそかきながらそう言っていた」
「――」
「初めて、痛みを見透かされた気がした。ヒーローという職は、確かに痛みに無頓着だ。気づいたら怪我は増えるしなあ」
はははと笑った彼は、病室だったということを思い出して口を噤んだ。それからもう一度名前の手を握り込んで、躊躇いながら、言葉を繋いだ。
「ヒーローにも痛みは確かに在る。それでも笑っていたい、大丈夫だと思うのは、救けたことを後悔にしてほしくないからだ。君がこうして話して、そして笑ってくれることが――…私にとって、ヒーローとして、意味のあったものだったと思える。それを、否定してほしくはないんだ」
救けなんて呼ばなければよかった。名前なんて呼ばなければよかった。
そう、ずっと思っていた。彼に言ってしまったこともある。あまりにも傷が、失ったものが大きすぎて、耐えられなくなった。そうして吐き散らした言葉で、炭谷を、グランファを否定し続けていた。自分なんていなければと、こんな個性がなければと思って悩んで出てきた言葉で、ヒーローとしてのグランファを否定していたかったわけではなかったのだ。自分の身体に馴染まない個性と、彼の気持ちをごちゃまぜにしていた。
そうして成長していくほどに、自分のした事の重大さに気付いて、もう向き合うこともできなくなっていた。そうしてヒーローへの反発心だけがむくむくと膨れ上がっていった。
「――けが、ばかりのヒーローは、きらいです」
ヒーローという職への嫌悪ではなかった。最初は、そうだった。
殉職したヒーローのニュースを見た。怪我をして搬送されるヒーローも、コスチュームで怪我を隠して活動するヒーローも。
そうだ。ヒーローが嫌いだったわけではなくて、怪我を厭わない彼らが、その当人でもないのに勲章だと褒め称える周りが、ずっと嫌いだった。
迷わず誰かを救けに行くことができる彼らを、嫌いになったことなどなかった。
「でも……グランファ。貴方は、ずっと、私にとって、ヒーローでした」
薄暗闇の中、痛みに泣いてばかりだった小さな子供を救ってくれた。
――気を失う間際に見た彼も、間違いなく、底知れない恐怖から救い出してくれたのだ。
* * *
炭谷との会話の後、担当医を連れて母がやってきた。このまま診察に入るというので、一度待合室に出されて終わるのを待っていた。
母はこれからのことを含めまだ話があるようで、忙しなくどこかへと向かっていき、隣に座る炭谷が、そろそろ事務所に戻らないとと言った。
「ありがとう、出久君」
「――僕、何もしてないです」
謙遜でもなく、事実本当にそうだった。
炭谷はそうじゃないんだと首を振って、ポケットの携帯をスクロールすると、指を止めて画面をこちらに向けた。そこには、雄英高校入試の朝の日付に、廃材まみれだった海岸線を片しているときの出久が映っていた。
「彼女に、雄英に行くよう勧めたのは私なんだ。進学先を迷っていたようだったし、折角ならヒーローの卵を間近で見てみなさいと言ったんだ。それからずっと音沙汰なしだったんだが、冬に写真が一枚送られてきて、何かと思えばこれだ」
出久が雄英のヒーロー科を受けること、見届けたいと思っていること。写真の下に短い言葉でそう連なっている。
炭谷は画面を閉じて再びポケットに戻すと、出久の手を取って笑った。
「今日も、その前からも、出久君は私と名前を繋ぎ止めてくれていた。君がいなければ、君がヒーローになりたいと願わなければ、君が雄英に来なければ、私のこの後悔が埋まることはずっとなかった。グランファとしてやってきたことを、誇ることができる。だから、ありがとう」
オールマイトが、彼の後悔を晴らしてやってはくれないかと言っていた。名前にとってのヒーローになれなかったのだという後悔。
――車椅子を押す腕の確かさの、一端になっていればいい。それぐらいは、思ってもいいのだろうか。
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