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昨日、あの白い病室から荷物を纏めて出て行った。病院を出れば、お祝いにご飯でも行こうと炭谷からのメッセージが一通入っていた。これからもう一度、炭谷として、グランファとしての彼とも向き合っていかなければならない。どうしたってなかったことにはならないのだ。義務や責務や罪悪ではなく、もっと別の形で、この縁を繋いでいくにはどうしたらいいのかと考えている最中だ。
登校するなり、まだ首に包帯を残している姿は誰彼の噂の的ではあったけれど、C組に心操や彼女たちがいてくれたお陰でなんとか一日を過ごしていた。
六限の授業も終わり、図書室にでも行こうかとカバンに教科書を詰めながら算段を立てていた時だった。俄かに騒めき立つ廊下に、顔を上げる。雄英高校の大きすぎるドアの先に、派手な姿のオールマイトが見えた。決して服装や装飾が華美であるわけではないのだが、彼の風体はなんとも表現しがたい。とにかく視界に入れば目を逸らすことも許されない圧倒的な存在感がある。そんな彼と、目が合った。恐らくこれは呼ばれているのだろう。ここで教室に入ってきて名を呼ばれるよりは、そろりと出て行った方がまだ目立たないのではないだろうか。急いでカバンに詰め込み教室を出れば、彼が入って来る前になんとか行動を阻止することができた。どちらにせよ、彼と並ぶ時点で注目の的にはなるのだが。二つボタンが何故オールマイトと一緒なのかというような視線を浴びながら、職員室のあるフロアの奥、仮眠室へと案内された。それまでのなんだが苦行のような時間に疲労感が肩に圧し掛かる。彼は部屋に入るなりみるみるうちに痩せ細った姿へと変わり、仮眠室の中央に設えられたソファに腰を下ろした。
「すまないね、急に。少し話がしたくて」
「自ら来られなくても…放送などで呼んでいただければすぐに来ます」
「いや、放送もこう…目立つかなと思って」
「あのオールマイトが普通科に来られるほうが目立ちます」
そうだったか、と目の前の長いテーブルにある湯呑にお湯を注ぎながら、彼は笑った。オールマイトは湯気の立つそれを名前の前にも置いて、自分の湯呑を両手の中で転がしている。見るからに熱そうだが、彼は一口飲み込んでから言葉を続けた。
「まずは、退院おめでとう。炭谷も仕事がなければと言っていたよ」
「有難うございます。炭谷さんからも連絡をいただきました。…そういえば、クラスメイトだったんですね」
「ああ。もう何年も前の話だ」
オールマイトは湯呑を置いて、膝の上で指を組む。少し張り詰めた空気に思わず背筋に力が入ったが、彼は違うんだと手を振った。
「今日は相談をしにきたんだ」
「…相談、ですか?」
「ああ。…炭谷からも聞いていてね。君は、自分の個性がどういうもので、どう扱うべきものかわかっているかな?」
この身に宿った個性は抑え込むべきものだった。扱う必要などなかったもの。けれど、個性が名前の一部なのであれば、そうでいいと許されたのなら、ただ抑えてばかりいる今のままではいつかまた破綻することは目に見えている。
オールマイトの言葉に、ゆっくりと首を横に振った。
「君に宿っている個性は両親から受け継いだ、君だけの個性だ。けれど、君の個性はただ放っておくには些か強すぎる。大切な個性が君自身を傷つけないためにも、どう個性を扱っていけばいいのかは知っておいた方がいいと思うんだよ」
「…はい」
スカートの裾を握り込んだ。
個性を使うことが怖くないと言えば、嘘になる。自分の意思に反してばかりいるこの個性を扱うようになれる自信もない。どんな姿が正しいのかも想像がつかなかった。
伏し目がちになる名前を察してか、彼は柔らかな口調で大丈夫だと言った。
「ーーこれはまだ話している最中なんだが、相澤くんを知っているかな?」
「はい、A組の先生で、個性が消せるって聞きました」
「そうだ。一度彼とも話してみるといい。私から言っておくから、心の準備をしておいてくれないか」
不安ばかりを抱えたまま、それでも前進していきたい気持ちに背中を押されてお願いしますと頭を下げた。
先に仮眠室を後にした名前は、時間も頃合いが良かったのでそのままA組を目指していた。あの男は捕まったのだから、ホームだってどこにだって一人で行けるはずだというのに、まだ、あの生々しい殺気が忘れられずにいる。かばんの紐を握りしめながら、一年生の教室がある階層に上っていく途中、影が落ちてきた。踊り場に誰かがいる。踊り場の窓から差し込む日差しに伸びる影は真っ直ぐ名前の足元にまで落ちている。手すりに掴まりながら見上げれば、そこにはポケットに手を突っ込んだままの爆豪がいた。表情は逆光の所為であまりよくは見えないが、笑っているはずはないので顰めた表情を浮かべてはいるのだろうなと思った。
「…勝己君」
早々に階段を降り始めた彼は、何も言わなかった。
すれ違いざま横目でちらとこちらを見遣る仕草はするが、やはりただ唇を真一文字に引き結んだままだった。名前がいる階数から三段分下がったところで、もう一度名前を呼ぶ。それでも、彼は止まってはくれなかった。
――好ましくは思われていない。思ってもいない。それでもずっと関係性は幼馴染のまま、同じ高校まで来た。出久は今でも憧れの人だという。ならば、名前はどうだろう。どんな時でも前を歩くのは爆豪だ。誰にも見つからない隠れん坊も彼がいるとすぐに終わる。熱く焼けそうな喉から、救けてくれた背中。高校に入ってから、もうずっと、分からないでいる。
「…飛び降りろって、勝己君は言ったよね」
最後の一段を踏んで、爆豪は漸く足を止めた。
三年生になったばかりの頃、無個性の出久がヒーローになりたいのだと、だから雄英高校に行くのだとクラス中に知らされた日。無個性は成り損ないで、ヒーローなんて夢物語もいいところだと嗤われた日。
――大嫌いだった。けれど、同時に沸き立ったあの黒々とした自分自身の中にある靄を忘れて、ただひたすら嫌悪し続けることは違うのではないだろうか。高校に入って変わっていくこの背中を見ていた。気付いていた。一番になると宣誓した声は、自分が一番じゃなかったと思い知った声だ。一番であることに拘り続けてきた彼が、一番であると揺らがなかった彼の意地が、そうではなかったのだと飲み下した声だ。出久の個性を知って、出久を睨み続けているその目は、彼を蔑ろにし続けてきたものから変容している。
「なんでそんな酷いことが言えるんだろうって腹が立ったけど――本当は、その時ほっとしたの」
手すりを掴んでいた手が震える。
出久の小さい頃からの想いを全て踏み躙った、醜悪で目も当てられないような自分だけの我儘だった。
「これで、ヒーローになりたいなんて思わなくなるかもしれないって思った。でも、出久はヒーローになるんだって。私が思ってることも全部まとめて背負って、それでもヒーローになるって。だから、」
ここにきて何も変わることもできずに駄々を捏ねて足掻いていたのは名前だった。出久も爆豪も、周囲の環境やそこに置かれている自分も受け止めて、模索しながら変わっていっている。爆豪のそんな言葉に安堵した靄を、なかったことにはできない。今もヒーローを続けてほしくない気持ちはある。けれどそれは名前の想いで、押し付けられないものだ。もう否定をしなくてもいいものだ。そこにあってもいいのだ。出久は変わらずにヒーローを目指していくけれど、そこには、あの日吐き捨てた爆豪だっている。出久がそれもすべて踏み越えていこうと考えているのなら、許せないままでも、きっといいのだろう。許せないものから、変わっていくこの関係性も一緒に見届けていけばいいのだろう。
喉の奥で詰まる呼吸に、目の前に立ち塞がる殺意に、誰も見つけてはくれないかもしれない不安と恐怖に、ぼろぼろとただ泣くしかなかったあの瞬間。眩しすぎる明滅に白んだ視界にあった背中。
――幼い頃、オールマイトを見てヒーローになりたいと願っていた声は同じだった。
「ヒーローになんかなれないって、言ってごめんなさい」
願うものを詰ったのは、爆豪も名前も同じだ。
彼は弾かれたように顔を上げて、僅かばかり目を開かせていた。
「救けてくれて、ありがとう」
爆豪は一瞬吐き出しそうになった言葉を飲み込んで、悪態を吐いて階段を下って行った。
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