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「――俺の個性は、相手の個性を抹消することだ。まずは個性を使うところから始めてみろ。もし危ういようなら俺の個性で止める」
「わ…わかり、ました」
相澤は何かを言いたげな様子ではあったが、瞬きをしたのち話を切り替えた。
視界の端で心操が布を使って移動していくのが見える。軽々と配管から配管を飛び越えていきながら、時折足を滑らせては巻き付けた布で宙ぶらりんになっていた。
――個性を使うこと。誰もが当たり前のようにできているものだ。引き攣った首に触れた。
いつも、唾液の味が変わるときがある。苛立った時、言いたいことがうまく言えない時、感情が激しく揺さぶられると、口の中にひどく甘苦い味が広がっていく。爆豪の発火させる前後に似たような匂いを嗅いだことがあるので、爆破と炎の形質からしても根本にあるものは近いものなのだろう。であれば、恐らくは唾液が火をふくために必要な要素だ。あとは、どうやって火をふいていただろう。どれも自分の意思とは常に無関係で、何かに迫られていて考えることなんてできなかった。
口の中が渇いていく。あの味は、まだしない。一向に個性を使う気配のない名前に、おいと低い声が這った。
節くれだった、大きな手。その奥に据わる双眸に影が落ちている。
「っ」
伸ばされた腕に身を屈めて、いや彼は違うのだと意識と無意識の狭間で混線した神経回路に身体が地面に落ちる。
傷痕がじくりと疼く。相澤が驚いた顔をして、それから二歩、後退った。だめだ、また、足が竦む。
――喉の奥から、息も詰まるような粘着質な異物がせりあがってくる感覚。苦い。それでいて、ひどく甘ったるい味だ。瞬きと同時にあふれ出た涙は無意識で、噛み合わない奥歯がかちかちと小さく音を立てる。ひゅっと吸い込んだ息が、胸の奥で詰まって再び吐き出したがった。
「っ! 、あ゛」
息継ぎのような呼吸から、風が起こった。頬が熱くなる。目の前は真っ赤で、そして急速に冷えていく周りの熱に合わせて視界も開けていく。目の前には、鋭い眼光を向ける相澤がいた。
喉が熱い。けれど、これは焼け爛れるような痛みじゃない。熱い食べ物を飲み込んだ瞬間に似ている。
相澤はその場にしゃがみ込むと、頭を掻き毟っていた。
「大丈夫か」
首を両手で縊るように包めば、皮膚の下で流れる拍動を感じた。熱はない。喘ぐ息苦しさもない。前方にいる彼に敵意など微塵もなく、距離を開けてこちらを窺うように目線を合わそうとしている。ここにいるのは、名前だけではない。
相澤の言葉に時間をかけて頷けば、彼は立ち上がってポケットに手を突っ込んだ。
「……七月頭に期末テストがあるだろう」
地面にへたり込んだまま動けずにいた名前を見下ろして、彼は目の縁にある傷口をなぞる。
「それまでに慣れろ。個性にしろ過去のトラウマにしろ、先に進むために必要なのはお前自身の意思だけだ」
どうありたいのか、常に頭に思い浮かべておけ。
そう彼は言い残すと、少し休憩をしようと心操の方へと身体を向ける。しゃがみ込んだまま、立ち上がれなかった。
それから二時間ほどの訓練を終えても、吐こうと思っても個性は出てこなかった。ライターよりも弱弱しい炎を見ることは一度あれど、あの頬を焼く熱はない。いつだってあの熱の向こう側には悪意がある。意志とは無関係に口の中で広がるそれらは、このままでは何も変わらない。
ひりひりと痛む喉というのか口というのか、兎にも角にも言葉を話すのも億劫になる焼け焦げた感覚だけが、その日の夜まで残っていた。
* * *
その週の土曜日、名前は隣の駅まで来ていた。駅前のロータリーは送迎の車で混雑していて、その脇を通り過ぎながら駅を背に右に曲がる。塾やら飲食店やらが並ぶ通りを抜けて、突き当りを左へ。大きな通りを道なりに、二つ目の信号の角にあるコンビニで無糖の炭酸とお菓子をいくらか買い込んで、その先にある年季の入ったビルのドアを開けた。
階段をのぼりながらこめかみを伝う汗を肩口で拭って、三階の改装中の壁に挟まれた摺りガラスの埋め込まれるドアを前に立ち止まる。深呼吸を二回。それから生唾を飲み込んで、意を決してノックした。
「ーーこ、こんに、ちは」
上擦った声が廊下で反響する。メッキ塗装の禿げたドアノブを捻って顔を出せば、奥の窓側にあるデスクには誰もいない。手前に突き合わせて並ぶデスク八卓のうち五卓に人が残っていた。電話をしていた男が顔を上げて僅かに目蓋を持ち上げた後、柔らかく微笑みながら手を振ている。その左隣にいた女が立ち上がって、手をこまねいた。
「名前、久しぶりだなあ。一年ぶりくらい?」
「…お久しぶりです、カイトさん」
「ちょっとは逞しくなったみたい?」
やや色落ちしてきた薄いブラウンベージュの、肩あたりまで伸びた髪をハーフアップに括っている彼女――カイトは、炭谷の一番弟子にして、彼が引退した後のこのヒーロー事務所のトップを務めていた。目鼻立ちのはっきりした顔は髪色もあって、欧風で綺麗と形容するに相応しい人だった。
あの日からなにも変わっていない。机の並びも、観葉植物も、彼女が使うマグカップも。
彼女は破顔させながら名前の緩く癖のある髪を撫でまわした。
「雄英通ってるんだって? 聞いたよ」
「…、うん、普通科に」
彼女たちはどこも変わらずに、まるで昨日も会っていたかのような口振りで笑いかけている。言葉に詰まりながら、飛び出したきり帰って来れなかった去年の春を思い出す。
彼女は髪を梳いていきながら、名前の首筋を目で辿っていった。目尻に浮かぶそれは、恐らく気のせいではないのだろう。
――思い返すことはしたくはない。それでもあの出来事がなければ、喉奥で塞き止められた熱を一生飲み込み続けたまま、胸に積もる靄とも向き合えないままだったのだろう。
どんな言葉を重ねればいいのか分からず、ただ上手くはない笑みを浮かべれば、カイトは目を瞠った後に安心したように目尻を引いた。
「ーー強くなったね、名前」
「…あの時は、ありがとうございました、カイトさん」
「ヒーローだからね」
「ヒーローだからね――ですよね」
彼女はいつも決まって、そう言って笑うのだ。カイトの言葉に重ねれば、一拍の間をあけて笑い声が事務所に響いた。
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