48.5
特訓を終えて校舎に戻り、着替えやなんだと終わらせてから下駄箱に向かえば、もう既にそこで出久は待っていた。今日の調子はどうだったかと聞かれて、思わず変わらずへたくそだったと笑ってしまった。もう隠し事はしないようにしようとそう決めていたのに、言えなかったのだ。個性がなかったからこそこうしてオールマイトに出会えたというのなら、無個性でよかったのだとそういっていた出久は嘘ではない。本心で、今もそう思っているだろう。今更母の個性も継いでいるのかもしれないと告げたところで彼はどんな感じだったかと嬉々として聞いてくるところも想像に難くはない。それでも、言えなかった。ただ、罪悪感に押し潰されてしまいそうな怖さはなかった。
――肩まで使った湯舟がぬるくなるまで思考を回し続けても、何故言えなかったのかわからなかった。
それからもう一つの可能性について考えながら個性を使っていれば矢張り相澤の推察通り、緑谷名前に宿っていた個性は火を噴くことだけではなかった。炎をある程度自身の周辺でのみ操作することができるのではないかということだったが、自身が吐き出した炎は吐き出すということに集中が向きすぎて出来ず、手始めに蝋燭の炎を使えば何とはなしに意思に従って動いているようだった。
一般人が獲得する個性制御という目的であれば、炎のコントロールを獲得する必要性はないのではないかと考えていたが、炭谷たちの助言もあってそういった面まで訓練をするに至った。
今日も今日とて六限終わりに体操着に着替えた心操とトレーニングの台所ランドと銘打たれた体育館に向かいながら、英単語の一問一答を繰り返す。来週には期末テストも控えているので、テスト前は今日が最後だった。相澤が来る七限目までは個性を使用することはできないので、専らその時間は試験勉強に費やしていた。
体育館の重たい引き戸を開けて、英語の教科書と参考書を広げる。昨日は古典だったので、気分を変えて今日は英語だ。
「中間考査は簡単な小テストだったから、やっぱり長文読解あるよね」
「クラスの奴が先輩に聞いたら、時事系の長文は必ずあるって言ってたよ」
「時事系かあ…がんばろ…」
構文をさらいながら、参考書の合間のページにある長文を読み解く。心操の英単語の記憶力は凄まじく、大概聞けば意味が返ってくるので有難い。ヒーロー科の編入にあたり座学の成績も考慮されるため、どこも手が抜けないのだ。
二段落めを指で辿る。お互いに薄い紙のページをめくる音が響いていた。規則正しい文字の羅列の中で、neighborがやけに主張して見えた。
「……心操君、いっこだけ聞いてもいい?」
「なに?」
「個性がただの隣人だって、どういう意味だと思う?」
アルファベットが並ぶと思っていた言葉ははっきりとした日本語で、彼は眼を瞬かせながら名前の顔を見た。それから言葉を咀嚼して、たっぷりの間を開けてから言った。
「…無関係ではいられない、とか?」
「…うん、?」
「あー、例えば隣の家の人だったら、無関係にはなれないけど、無関心でいることはできるだろ」
ていうか何その哲学みたいなの。
蒸し暑さに額に浮いた汗を拭いながら、こちらを伺うような視線を向けた。
「…知り合いのヒーローに、言われたの。個性の扱い方が分からなくてって、」
「――ならなおさら。無関心でいたっていいくらい気負って何かしなくちゃいけないってもんじゃないって、そういうことだったんじゃない」
うっすらと笑った心操に、ひどく納得してしまって、思わず二つめの問いを口走りそうになった。これは彼に聞いたところで解決しようもないだろうに。それでも、確かにそういうことだったのだろうと思うほどにはカイトたちの言葉を代弁してくれたような心持がして、嬉しかったのだ。
「うん、すごい、ありがとう心操君」
「――緑谷さんはさ、ヒーロー科、受けないのか?」
思ってもみなかった問いかけは、今の名前に聞いていた。
個性のことを考え始めて、扱い方を覚えて、周りにヒーローもいて。状況からすれば、そう憧れたっていいものなのかもしれない。
「…受けない。ヒーローになりたいわけじゃないから」
「……ヒーロー向きの個性だと思うけどなあ」
彼は抱えていた膝を崩して胡坐を掻いてから、それから自分の発言に声を漏らした。
――ここ最近の格闘訓練ばかりのせいで、チャックの壊れた体操着の襟が風にはためく。トレーニングを始めた出久のように、彼もまた随分と身体の線が太くなってきているように思う。体育祭のあの頃とは、彼だってもう違うのだ。
顔色を伺うような心操に、へらりと笑ってみせる。彼はバツが悪そうに顔を背けて、観念したように気の抜けた笑いを浮かべた。
「――火災現場とかさ、炎操れたらすごい助かるじゃん」
「そうしたら、心操くんがヒーローになって、もしも火災現場で困ってたら力になれるね」
あ、でも一般人は立ち入り禁止か。いつかの敵に捕らわれた爆豪を見ていた時のように、ただ目の前で見上げるだけになってしまうかもしれない。けれど、ヒーローが駆け付けるまでの間に、やれることがあるかもしれない。それで傷つくヒーローが減るのなら、一般人としてしてやったりと喜んでもいいのではないだろうか。
ヒーローではない身として個性をどう扱うかと考えたときに、そういうふうに使い道があればヒーローの負担も減りそうなものなのになと思う。実際は基本的に公共の場で個性使用は厳禁なので、難しいのだろうが。
心操は面食らったような顔をして、それから口元を手で覆っておかしそうに笑った。
「そんな最強な一般市民がいるのかよ」
「ヒーローが、って全部責任押し付けてしまう一般市民にはなりたくないなあ」
折角雄英高校に来たのだから、出来得る限りのことはしてみなさい。この先使うかも分からないからといって無意味なことだと、決めつけてしまうには早いだろう。
また通い始めたグランファ事務所で、彼らはそう笑っていた。近道を諭す先達はあれど、遠回りを咎める者は少ない。
「…緑谷さんはレアリティ高そう」
「何それ、市民カードで?」
「そう」
ヒーローという職業がこの社会にはある。強大で凶悪で異形の個性を悪意を込めて振り翳している敵という役がある。こんな個性というものもなければそんな職業もありはしなく、心操が謂れのないレッテルに傷つくこともなかったのかもしれない。それでも、もう彼らは存在していて、心操はヒーローになるために努力を尽くしている。そうだというのなら、ヒーローにはならない名前ができることは恐らくそういうことなのだろう。
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