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七限目の終わりを告げるチャイムが流れる。ここからクラスに戻り終礼になるので、相澤が体育館に来るまであと二、三十分はかかるだろう。長文を二題解いた当たりで顔を上げて、ウォーミングアップでもしようかと話し合う。教科書を隅にまとめて、体育館の外周を只管回り続けるジョギングを始めた。ニ十分間は休まずに走れとのお達しがあるので、ただ無言で走り続けるのだ。何周かもすれば心操に片手の指くらいは追い越されている。
乱れた呼吸を繰り返す。お互いのポケットに入れた携帯のアラームがほぼ同時になった頃、相澤がやってきた。
「基礎体力は基盤だからな。明日のメニューから倍にしとけよ」
「せめて漸進的にお願いします…」
心操は全く無問題だろうが、名前にとってはウォーミングアップの時点で訓練が終了になる。それじゃあ明日の自主練は三十分だとあっさり言いのけた相澤に、これは返答を想定したうえでの計画的な提案だと気づいたのは彼女だけではない。悔しさを滲ませながらも頷けば、相澤が笑った。
五分の休憩の後訓練に移る。怪しくなってきた空模様を体育館の入り口で二人並びながら見上げるも、風が流れてこない。蒸すような空気に汗が一向に引く気配もなく、襟元を摘み上げながら僅かな涼風を求めてぱたぱたと仰いでいれば、心操にそれやめてと背中を叩かれた。暑いのにと不満を零せばじとりとした目で見下ろされる。赤シートで仰げばとの助言にその手があったかと取りに行こうとすれば、相澤の開始を告げる声が響いた。
最初の一時間は火力の調整だ。感覚的には吐く息の長さと量である程度の調整が効きそうではあるが、これが難しいのだ。個性を使うという感覚には大分慣れてはきたが、まだ大元のスイッチをオンにするかオフにするか、そんな切り替えで頭が混線する。そもそも個性を使うぞという意識があって成立するところが、まだ自然体ではないような気がした。
目の前に手のひらほどの不燃性のプラカードを立てて、縁いっぱいに描かれた黒い丸の中心に向かって唇を尖らせる。ふるふると不格好に震えるのは意識しようとしているからだ。それでも結局、口のすぼめ具合とは無関係に口の中で起こる小規模な爆発じみた勢いに負けて視界いっぱいの炎が溢れる次第だった。
個性というものは、なんとも気の難しい隣人だ。
「あつ…」
擦り傷や砂埃にまみれた心操が相澤から一本取れそうで取れないが及第点をもらったところで小休止になる。ついぞ細い雨が降り始めたところで漸く風を感じられ始めて、入り口で膝を抱えながらの反省会。それと冷房設備への不満。
「こっちも被害受けてるから」
「それは…ごめん」
「ガチなトーンやめて」
冗談だったんだけど、と苦い顔をした心操に知ってると返せば手に持っていた赤シートを奪われた。取り返そうと手を持ち上げると、心操と名前の間から黒い腕が伸びてきた。その手には小ぶりな保冷パック二つが摘ままれていて、珍しく暑そうな相澤を見上げて首を傾げる。
「お前の個性は体温調節も難しい。とくに夏場は冷やせるもん用意しとけっつったろ」
某スイーツ店のロゴが入った保冷剤と彼を思わず見比べてしまえば、買ったのは俺じゃあないという視線を受けた。いつも熱をもつ顎下あたりをその二つで挟めば、頭の芯まで冷えていくような感覚に目を閉じる。そよそよと控えめな風が右隣からも流れてきて、わざとおこぼれの風が届くように仰いでいる彼の優しさが身に染みた。
「期末が終わった後の夏休みまでの間も見てくださるんですか?」
「木曜だけだがな」
ということは、あと一回で今学期の訓練は終わりだ。そうしたら、夏休みが始まる。ヒーロー科は強化合宿があるそうなので、普通科である心操はそこからまた一歩遅れてしまう。ちらと彼を横目見れば、止まりかけの人形のような動作で仰ぎながら、雨の降り落ちる空を眺めていた。
* * *
そうして、期末テストを迎えた。ヒーロー科はその次の日に演習があり、出久はいつもの如くへろへろではあったけれど、大きな傷をしてはいないようだった。相手はあの巨悪に扮したオールマイトだったというので、この傷の少なさは成長の証なのだろう。かっちゃんがさ、と電車の中でそう零した出久の言葉に住む彼は、矢張り藻掻いていた。
相澤との特訓も今日で最後となる。この三週間、これから先の一生分の個性を使ったのではないかと思うほどにずっと火を噴いていた。最初の頃よりは火を噴くまでのタイムロスが大分短くなったと思う。出力の調整も指向性のコントロールもてんで出来てはいないが、相澤は焦る必要はどこにもないだろうと呆れた顔をした。
「相澤先生」
心操が捕縛布を袋にしまっている間に、目薬をさしていた相澤を見上げる。彼は充血した目を眇めながら、髪をかき上げた。
「どうありたいかを、常に考えろとおっしゃっていましたよね。私、良い一般市民でいようと思います」
ヒーローという人たちが傷つくことを厭わないというのなら、守られるばかりになんてならないようになればいい。その他大勢の市民ができることなんていうものは多くはなく、それでも彼らからすればすべてもれなく庇護対象だ。そんなもの、どうしたって手に余る。
誰かをこの個性で傷つけたくはないからと始めた個性との向き合い方はまだ手探りではあるけれど、そんなものでいいのだろう。なにせ、個性は隣人で、これから一生そこに住み続けていくのだ。
「…緑谷も心操も、随分自己否定的で自罰的傾向が強いが、個性云々を置いといてもお前らはちゃんと強くなってる」
心操が袋を提げて隣に並ぶ。
――来週で、長かった一学期が終わる。これから入る夏休みは普通科にとっては課題に追われる毎日で、ヒーロー科よりも個性を使う機会も与えられないただの一生徒になる。一か月と少しの日々は、心操にとって焦燥を掻き立てられることになるのだろう。
「…ヒーロー科だろうと普通科だろうと、お前らはまだ高校生だ。一人で何かを為そうとは思うな。たった一人で何かを為そうなんざそれこそオールマイト級だ。常に思考し、己の個性と身体と向き合っていけよ。時間は有限そのものだからな」
「はい」
それじゃ、いい夏休みを。
そういって彼は校舎の方へと戻っていった。
「…心操君と特訓できてよかった」
見えなくなっていく相澤の背中を目で追いながら、脳裏によぎるのは良いことばかりではない。
心操は言葉にならない音をひとつ唇から漏らして押し黙った。
「私、ヒーローが嫌いだったんだ。怪我ばっかりで、どんな大けがしたって笑ってて、勲章だって皆囃し立てて、そうさせてしまう個性も嫌いだったけど、」
隣にいる彼を振り仰いだ。梅雨の合間の晴れ間で、今日は一段と、空の青さが目に染みた。
「こんな個性でも、心操君たちヒーローが少しでも怪我しないように自衛していく術があるなら、そうなれるといいなって思う」
こんなふうに笑って、個性の話ができるようになるなんて思いもしてなかった。
閊えも蟠りも、まだあるけれど。
「――俺、まだ編入できるか分からないけどね」
「相澤先生は、無駄なことに時間は割かないんでしょ? なんにせよ、ひとまず、特訓お疲れさまでした」
両手を掲げれば、彼は小首を傾げた後に笑った。ぱしんと乾いた音が響く。
彼の手は冷たくて、それでいて捕縛布を掴むせいで擦り切れて厚くなった皮膚が硬い。こういう努力の人が、理不尽な暴力に傷ついては欲しくないと、ただそう思う。
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