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家に帰れば、温かなご飯が待っていた。ひどく疲れた顔をした母は、それでも元気に食べてほしいと出久の器に米をよそって、食卓に並べる。怪我の一つもない出久がぽつりぽつりと話す日常の会話に、母の顔が緩んでいく。少しの無音も聞きたくなくて食事中につけたテレビのバラエティー番組から漏れる陽気なコメントが、やけに大きく聞こえた。

夜半に、うっすらと目が覚めた。月明かりが眩しかったわけでも、寝苦しいほど暑かったわけでも、トイレに行きたかったわけでもなく、ただはっきりと意識が冴えたのだ。
キッチンに立って、コップに麦茶を注いで飲み干す。喉は確かに、渇いていた。それから眠る気も起きずにリビングのソファで携帯をいじりながら時間を潰していれば、不意に誰かの声が聞こえた。
――泣き声、だ。
今まで全くと言っていいほどそういう経験をしたことがなかった名前ではあったけれど、怖さ半分好奇心半分といったところで、その声を辿ってみることにした。耳を澄ませてみると、リビングではなさそうだった。廊下に顔を出したところで、先程よりは少しばかりよく聞こえる。
くぐもっていて押し殺した声は、どう聞いても母の声のようだった。
寝室の扉に耳をそばだて、息をひそめる。
――ずっと、泣いていた。詰まる呼吸を何度も殺しては、泣いている。名前は扉からそっと離れて、自室に戻っていった。
――爆豪は、何もできることはないといった。関係もないと。家族のことであっても、普通科なら、ヒーローではないのなら、無関係だと。母も泣いているというのに、出久が立ち向かう相手も知らないというのに。


『なんもねェよ』


それは、名前に個性があってもなくても、そういう話ではないのだと、そんなふうに告げているような気がした。
――オールマイトを相手取って敵が交戦を仕掛けているのであれば、オールマイトの力を受け継いだ出久はどうなるというのだろう。それは時間が経っても誰にも知られずに済む話なのだろうか。この先オールマイトが力を発揮することができる時間がどんどん減っていって、常にあの痩せた体躯でしかいられなくなったら。出久の力はオールマイトに似ている。それは本当に、分けて考えるべきことだろうか。敵は、出久をどんなふうに見るだろう。
ベッドに寝転がっても、もう眠ることなどできなかった。



それから、修了式を終えて夏休みに入った。一週間後にヒーロー科のみ七日間の強化合宿が始まる。行先などを告げるパンフレットを片手に出久は奇妙な顔をしていたが、母の頑張ってねという言葉に笑っていた。
高校生活初めての夏休みは、なんてことのない日常と気難しい個性を抱えて、始まってしまった。
合宿までの間は間を開けて特別講習を受けなければならないようで、出久は家にいたりいなかったりと忙しなかった。目指すべき平和の象徴、ヒーローに向かって研鑽を積む彼の日々を見ていた。
この一週間、ただ、見ていた。
合宿初日の今日、一度雄英高校を経由してから合宿先へと向かっていく出久の背中を玄関で見送る。大荷物を抱えて、行ってらっしゃいと行ってきますを交し合って、そうして、静かに出ていった。


「無事に帰ってきてほしいね」


母のその言葉が名前にはとても重たくて、彼女の顔を見ることもできない。仕事に行く支度をし始める母のスリッパが床を滑る音が響く。
ヒーローが嫌いだった。それでも、グランファはヒーローという職を選び、傷つき、なおも名前と関わろうとし続けた。そんな彼がヒーローの卵を見てきてごらんと勧めたのが雄英高校だった。出久もそこを目指していたので、必然的に彼を見届けていくという約束が増えた。見届けるということは、ただ見ているだけのことをいうのだろうか。この言いようのない靄を形にすることができない。爆豪の言葉に言い返す声が出ない。靄が、溜まっていく。
――言葉は探さなくてもいいんだよ。
ファンドの声が、聞こえた気がした。


「――名前!? どこいくの!」


サンダルをつっかけて、玄関を飛び出した。
無関係でいることが正しいとは思えない。傷ついていくヒーローをただ茫然と眺めていることが正しいとは思いたくない。だからといって、彼らの前に立てるほど強くはない。名前が抱えている考えは矛盾しているだろうか。傲慢だっただろうか。傷ついてほしくない気持ちと、出来ることも何もない現実は、確かにある。それらは両立しない話だったのだろうか。それでも、ヒーローが来るまでの少しの間にできることを模索しようとしていた自衛の術は間違いではないと思う。
緑谷名前は、ヒーローにはならない。緑谷出久は、オールマイトの後継となるべくして育てられている。
階段を一段飛ばしで降りていく。マンションのロビーを、出久が出ていこうとした。


「…っ待って!!」
「! な、名前!? どうしたの、そんな慌てて…忘れ物とかあったっけ?」


エントランスの自動ドアに踏み出していた足を引っ込めて、出久は名前のもとに駆け寄ってきた。両手には何も持っていないので忘れ物ではないようだと気づきはしたが、それ以外に思い浮かばないようで、どうしたのかと再度声をかけた。
呼吸を整え、くの字に曲げていた身を起こして彼を見据える。
靄は依然として、言葉になってはいない。


「――っ、わ、…私、お母さんの個性もあるみたい」
「! …そうなんだ、すごいや、やれること幅広くなるね!」
「――でも…私は、ヒーローにはならない」


出久は安心したような顔をしてそばかすの散る頬を緩ませると、最後の言葉にはっとした。
握りしめそうになる拳を、無理やり広げて息を吐く。吸い込んだ息は苦しかった。


「でも、ヒーローにならないから、ヒーローになっていく出久にとって無関係になるわけじゃない。いずと家族だから、いずがこれから敵から受けるかもしれないいろんなものとは、私は無関係になんかなれない」
「? 待って、名前、何の話して――」
「私の話! 私が、いずに対してできることなんか何もないなんて思いたくない。力にはなれないけど、そうじゃないことだって、あるんだって思いたい」


そうだ。無関係だなんて言ってしまったら、できることなどなにもないと思ってしまったら、彼のために泣いた母の涙の行先がなくなってしまう。彼のために何かを思うことが枷になってしまう。無意味なものになってしまう。そんなもの、あまりに寂しい。


「強化合宿で、いずが強くなるんだったら、私も何か頑張る。個性は使えないけど、もっとできること、探す」


話したい事はまとまっていないけれど、考えてしまうと言葉がつかえて出てこなくなってしまう。
相澤は常に思考を止めるなと言った。何になりたいんだと問われた言葉に返した声は本当だったはずだ。ただ、それを実現させ得る方法を知らないのだ。それは誰かが答えを持っているのかもしれないけれど、少なくとも今の出久にも名前にも持ち得ていないものだ。答えはないから言葉は酷く曖昧で、けれどこの感覚は名前だけが持っていても恐らく上手くいかないのだろう。
出久は呆気にとられて目を瞬かせた後、薄らと瞳の縁を波立たせる。そうして傷だらけの右手で彼女の頭を掻き撫でた。


「うん、お互いがんばろ」
「ごめん、引き留めて。…行ってらっしゃい」
「うん、行ってくる!」


手を振った出久の背中が、照りつく朝日に白んでいく。
合宿を終えたらきっと母が迎えに行くだろうから、今度は駅まで迎えに行けるといい。どこかに多少の怪我があっても、彼が笑っているのであれば、名前も新しいことの話をしよう。

――無関係なんてこと、あるはずがないのだから。

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