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合宿から早三日目。出久からくるメッセージは今日もボロボロだったとそんなものばかりで、なかなかハードな訓練を送っているようだった。これからヒーローを目指していく学科の強化合宿が甘いわけがなかった。
出久がヒーローを目指して努力を積み重ねる合間にできることをと思ったが、さて何を始めようかと悩んだのが一昨日の話である。出久の身体を支えていくために栄養学に手を付けるのもいいかもしれない。あとは今まで遠ざけてきたヒーロー関連の情報や法律を見直すのもいい。相澤との特訓の合間に民間人の個性使用についての話もされたので、やはり個性の特訓をしていくうえで避けては通れない道だろう。そんなこんなで、夏休みだというのに勉強漬けの日々を過ごしていた。
心操とも時折トレーニングの話や、道端で見つけた猫の写真を送ったりなどして話もしている。彼も彼で恐らく言葉にはできない靄を抱えているのだろうなと、そう思うとなんだか同じもののような気がして、正当な逃げ道のような感覚を覚えている。
今日も気温が落ち着いた夕方頃に、日課のランニングへと出かけた。おかげさまで三十分は走り切れるようになった。それ以上はまだ休憩を挟まないと苦しいので、心操にはまあぼちぼちやっていこうと笑われたばかりだ。
家を出たときはまだ太陽は沈んでいなかったのだが、ゴール先の公園まで着けばあたりはもう暗くなり始めていた。街灯も点き始めて、人気も疎らになってきている。少し、回り道をしたのが余計だったようだ。調子がいい日はついつい距離を伸ばしてしまう。


「…帰ろ」


公園のベンチから立ち上がって、腰のホルダーにペットボトルを差し直す。その時だった。


「今晩は、緑谷名前」


目の前に、男がいた。確実に誰もいなかったはずの目の前に、だ。男の隣には燕尾服のようなスーツを着た男も共に立っていて、しかし彼の手足や顔は靄に覆われていて人相など分からなかった。
唾液さえも喉に引っかかる。皮肉にも危険察知の能力は上がっていて、全身で彼らを拒絶していた。
言葉を交わすより先に距離をとるべきだと判断して、ベンチを飛び越えようと身体を動かした刹那。黒いフードを被った男の手が、名前の肩に触れた。
一瞬にして強張った身体は、もう動けない。火傷の跡がひどく痛む。喉が、渇いていく。


「まあまあ、ちょっと話をしよう」


彼はにこりと笑って、かさかさに乾いた唇の隙間からそう零す。


「俺のこの五指全部が触れたらお前の身体は即崩れていくが、まあお前が何もしなかったら問題ないよなぁ」


彼はそう言うと、名前の肩を押してベンチに座らせ、まるで友人のような気軽さで隣に腰かけた。靄の男はただ何も言わずに、その場所から動かなかった。


「俺はさ、スカウトをしに来たんだよ」
「…ス、カウト」


ようやく振り絞って出た声はひどく嗄れていた。半袖の隙間から決して寒くはない風が肌をさらっているというのに、悪寒が止まらなかった。
彼はゆったりと笑って、隈のひどい双眸をこちらに向ける。


「昔、お前を誘拐した敵がいただろう。興味があって、そいつのこと調べてたんだ。そうしたらさ、つまんないくらいに平凡な少年だったわけ。けれどそいつはいつも、個性に悩まされていた。敵みたいだといわれた個性で、望まない道へと追いやられたんだ。わかるか? 周りがそいつを悪者にしたんだ。それがなければ今頃お前を誘拐した過去もなく、幸せに過ごしていただろうな」
「……なにが、いいたいんですか」
「なにが? …ああ、そうだ。要はさ、周りが、個性が、そいつを良いか悪いかに分けてるんだよ。良い個性ってなんだと思う? ヒーローなんてものがこの世の中にあるから、個性に良い悪いなんて評価がつけられるんだ」


お前も、そんなふうに考えたことあるだろ。
彼は笑っていた。頭の中すべてを見透かされてしまっているのではないだろうかと思うほどに、その目は暗く濁っていて、どこまでも名前の言葉を追いかけている。
この男がいったい誰なのかも分からないというのに、羅列される言葉が脳に置かれていく。


「…っだから、あ、の人を、許せってことですか」
「違う。こんな世界がなければ、そいつも、お前も、そして兄弟の緑谷出久も、みんな幸せになってたと思わないか? そして、お前を助けたヒーローも、あんな姿になることもなければ、この間みたく逆恨みのフォロワーに殺されそうになることもなかった」


これ、その時のだろ。痛そうだよなあ。
ざらりと首の火傷痕を指で辿る。火傷痕って気持ち悪いよな、と笑った。
――否定が、できない。彼が話している言葉は、すべて名前も考えたことがあった。名前を誘拐した男は、お前らのせいだと泣いていた。彼も心操のように、謂れのないレッテルに壊れてしまったのだろうか。そうであったとするならば、彼がそんなふうに追い詰められなければ、名前は誘拐されなかった。炭谷は探しには来なかった。傷つくことはなかった。あの記者は命の比重に悩まなかった。その矛先は名前には向かなかった。
――事の発端はどこにあったのだろう。この男は、個性に善悪の評価がつくことからだという。それは、間違いではないのかもしれない。
吐き出す言葉に迷いがある名前を嬉しそうに彼は眺めながら、また話し出した。


「そんで、その良い個性、良いヒーローっていう土台を作ったのはほかでもないオールマイトだ」


ぞわりと、鳥肌がたった。これは、身に覚えがある。怒りだ。何かに対する激しい怒り。行き場のなく、やり場のなく、それでも止まらない激情。
肩を掴む指に力が入る。眼前で絡みつく怒りに、息が詰まっていく。
――この人は、いったい何がしたくて、こんな話をしに来ているのか皆目見当もつかなかった。何故、出久も名前の名前も、過去の事件も、そしてその犯人の経緯までも知っているのだろう。
脳の表面を柔らかく撫でていた声が止まる。目が覚めるように冴えていく。
オールマイト。名前の奥に隠れない怒り。木椰子区で現れたという敵。敵の目的はオールマイトだという。――その敵は、USJ事件を引き起こした、張本人。


「…オールマイトを、貴方は、どうしたいんですか」
「あ? ぶっ壊したいんだよ。俺は。お前もそうじゃないか? 俺たちは仲間だと思ったんだよ。ヒーロー嫌いのさ」


――正当防衛に使われる個性は、罪に問われない場合が多い。相手を殺すつもりはなく、自分自身を守るため仕方なく行った行為を咎めることは難しい。だからといって、命を脅かしてしまうと理解をしたうえで行使した力は分別し難い。この違いは、分かるよな緑谷。
特訓をし始めて少ししてから、相澤はそう言った。思った以上に名前に宿っていた個性が強力だったことと、彼女が個性に関する基礎授業の一環を殆ど覚えていないことから、そんな授業をしてくれた。


(相澤先生…ごめんなさい)


歯を噛合わせる。腹と足に力を入れて、思い切り息を吐きだした。


「ッくそ、無個性じゃないのかよ」
「死柄木!」


弾けた炎は調整のできない最大火力。視界を遮り意表を突くことができれば十分だ。


「目的のために他人を傷つけてもいいのなら、そんなの一番嫌いです!」


男の手を振り切って一歩、踏み出した先で、何かにぶつかった。


「あーあー、良い性格してるよほんと…双子ってそーいうとこも似んの?」
「っなんで、」
「――じゃ、まァ…決裂ってことだ」

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