53
靄に侵食されていく視界。消えていく音。暗転し、そうして気づいたときには、薄暗い室内で横たわっていた。
頭を潰す硬い感触。身動きの取れない腕。視界の縁で、レンガ調の壁に貼られたオールマイトのポスターが無残に引き裂かれたまま放置されているのを見た。カウンターの奥に並ぶ酒のボトルから屈折した光が床を彩る。
唐突に、数人の足音が床を踏んだ。咳き込む声や苛立たしさを孕んだ悪態が、無音だった部屋に一気に溢れた。
「…ああ、お前らも戻ってきたか」
「あんらあ、何その子」
頭を踏みつぶされたままのせいで、顔を上げることも状況を把握することもままならない。大きな足が三人分、目の前に立ちはだかった。それ以外にも背後に何人かいるようで、取り囲まれていることだけはわかる。女性口調の低い声で発した疑問には答えず、頭上にいる男は努めて冷静に問うた。
「で、コンプレス。彼奴は? 捕まえそこなったのか?」
「ちゃんと捕まえたよ。暴れるんで眠っといてもらったが」
どさりと、何か重たいものが背後に落ちた。ようやく頭を押さえていた足がなくなり、ゆっくりと振り仰ぐと、皮膚を継ぎ接ぎしたかのような男にサングラスの男、そして爬虫類を思わす姿をした男の三人がいた。
継ぎ接ぎの男が、両手を後ろ手に拘束されたまま寝転がる名前の腹を小石でも蹴るかのような動作でつま先で腹部を小突く。咽るほど強くはないが、思わず体に力が入り、空気が口から抜けた。
「んで、こいつは一体何なんだ」
「緑谷出久の双子だよ。そいつもヒーロー嫌いで彼奴の家族なら、何かしら使えるかと思って連れて来た」
「はぁ?」
「――っい、」
床に散らばった髪を掴んで持ち上げられる。ぶちぶちと小さな音と痛みに歯の根が震えた。
視界一面に広がった継ぎ接ぎの男の顔は近づくとより爛れている肌がよく見えて、青紫の皮膚は触れればまだ柔らかく膿んでいそうだ。この雰囲気も相まってその姿はおどろおどろしく、震える奥歯を噛み締めてそれでも目をそらせずに睨み返す。
――ここに連れて来られている時点で、見せしめに殺すというわけではないのだろう。いや、分からない。オールマイトが目的のはずだというのに、何故出久の家族というだけで名前がここに連れられなければならなかったのだ。この集団が何なのか、今がどれほど時間が経っていて、この場所がどこなのか、なにも分からないこの状況に、それでも涙をこぼしたくはなかった。
男の目が不愉快そうに細められる。そのまま床に叩きつけられるように放られれば、カウンターに並ぶスチールチェアに頭をぶつける。無防備すぎた頭にその衝撃は大きく、くらりと眩暈がした。
「どいつもこいつも、ガキらしく泣き喚けよ」
「あの写真の子、緑谷出久くんだっけ? あの子にマスキュラーがやられたのよ。双子ならきっと助けにでも来るでしょ。その時に一緒に殺しちゃえばいいんじゃない?」
「だめだ。ステイン様が生かした男だぞ」
――言葉が、頭上を飛び交う。それぞれの主張に統一性がなく、言いたいことを言っていて話が見えてこない。ぶつかった拍子に倒れたスチールチェアに肘をかけて、身を起こした。カウンターの下に縮こまるようにすれば、制服を着た女の子が上から降ってくる。その拍子に、ほつれかかったお団子が揺れた。彼女は恍惚とした表情で名前の顔をナイフの持った手で挟み上げて、ゆったりとした口調で言った。
「うわあ、本当。出久くんにそっくり。いいなあ双子って、出久くんとおんなじで、羨ましいなあ」
半袖から伸びる腕を這う鋭利な冷たさ。彼女はおもむろに細い肩に乗る透明な何かを取り出した。背中のポンプとチューブで繋がる透明な筒の先から、注射針が飛び出す。
「出久くん、ボロボロでとってもカッコよかったの。名前ちゃんの血は、出久くんとおんなじ味がするのかなあ」
「っ、いずに、何をして――!?」
「おい、一応まだスカウト途中だ。そういうのは後にしろ」
「せっかちですね弔くん。折角恋バナしようとおもったのに」
ナイフが肌から離れていく。彼女は立ち上がって死柄木と呼ばれていた男のもとへと歩いた。
彼の足元に、誰かが落ちている。固く瞼は閉ざされていて、薄く開いた唇の隙間から苦しくはない呼吸を繰り返している。薄ぼんやりとした視界でも分かるほどには、よく見慣れていた人だった。
「っか、勝己君…!?」
近づこうと力を入れた足が、かくんと抜けた。荒れた肌に浮く両目がこちらを射抜く。これ以上どんな行動も言葉を紡ぐことも許さない空気に、肌が粟立つ。意味のない音が喉から抜けて、彼が一歩踏み出した足に合わせて壁に背中を寄せた。
「そういうのはさぁ、要らないんだよ」
声も、でない。呼吸が詰まる。苦しいのに、息を吸うことも許されないような目。
さっきの話の続きをしようと、目の前に歩み寄りしゃがみこんだ死柄木は、ポケットから切断された手を取り出して顔面に張り付けた。変色した指の隙間から、赤い目が細められる。
「なあ、人を傷つけるつったって、ヒーローも同じだろ? どうして俺たちの暴力は悪くてヒーローなら許されるんだ? 理不尽だろ。それに、死人が出た数より救った人間が多ければチャラになるのか? 頑張りましたって状況だったら数人死んだっていいのかよ。へらへら笑ってるのをみたら、お前だってイラつくだろ?」
――救えなかった命がある。目の前で、あとたった二人だ。たった二つの命を、守れなかった。
仕事の合間に、毎年どこかに花を送っていた日があった。それがあの火災のあった日だと知ったのは、中学生になった頃かその前の年か、そのくらいだったと思う。彼は今も欠かさずに送っているだろう。炭谷は、目の前で潰えた命を忘れたことなどなかった。オールマイトのことは知らない。けれど、彼とてそういった過去があったのなら、蔑ろになどしないだろう。笑って立つのは、後悔にさせたくないからだ。挫けて負けてしまったと思われることこそ、忘れてしまうことこそ、それは絶望に等しいものだと。そう言っていた言葉を今になって思い出す。
「――……ない」
「あ?」
ざわりと、腹の奥で何かがうごめく。喉奥が焼ける。視界の端でちかちかと明滅する反射。死柄木の炎に似た赤が眇められる。
――許せないと思ったときは、言い返したっていいんでしょう。グランファ。
あんなにたくさんの涙をこぼしたあの人を、もう、これ以上否定されていいわけがない。
「…っグランファもきっとオールマイトだって! 忘れて立ってるわけなんかじゃない! 傷つけたくてしてるんじゃ――!」
食いつくように前のめりになった瞬間、背後から硬質な何かで側頭部を殴りつけられた。
「っ、ぁぐ、…!」
「女の子の怒鳴り声って頭に響くのよね」
「それは私も?」
「あらトガちゃんはそんなことないわよぉ」
右肩を床に打ち付けて、また彼らに見下ろされた。先ほどよりも比にならないほどの痛みが思考をせき止める。床の木目がゆがむ。頬に、何かぬるりとした粘着質なものが流れた。
「血が出ると、ますます出久くんに似ています」
カァイイね、と女子高生がとめどなく流れるそれごと頭を撫でた。
酒瓶の色とりどりのガラスの反射が暗い床を彩っていて、ゆるゆると落ちてくる瞼が色を消し去ってしまった。
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