59
サイドテーブルに乗るデジタル時計が午後二時を報せている。オールマイトの劇的な最後の戦いから三日が明けて、名前はようやく今日の朝はっきりと意識を取り戻していた。
朝の診察時に、自分の脳のMRIやらCT像を見せられながら、多少の縫い傷が右側頭部に残っていることを教えられた。まだ、傷は痛かった。
いつの間にか地元の病院に移送されていたようで、仕事の時間を遅くしてもらったという母が診察をした医者の後にやってきた。チョコの挟まったクッキーをテーブルに置くなり、母に強く抱きしめられた。生きててくれて本当によかったと言葉にもならない声が、耳元で嗚咽に交じって落ちていく。背中を撫でる手の小ささに、出久も名前も、母に対してしていることは何たる苦行かと気づかされた。
『…名前、』
抱きしめられながら、母の弱弱しい声が願っていた。
『……雄英、行かなきゃだめ…?』
――出久にも、聞いているのだと思う。彼はなんと答えるだろうか。出久にとっての雄英高校はオールマイトを追いかけるために必要な行為だった。名前にとっては、炭谷の一言だった。けれどもう、あの頃の言葉などよりももっと明確に、雄英に通わなければならないのだと自覚している。相澤や心操といるおかげで、個性と向き合えている。変わらない友人たちがいつもと同じ日常をくれるから、跡の残るただの高校生として過ごしていける。母には考えておくと言ってはみたが、腹の奥ではそれ以外の選択肢はどこにもなかったのだ。
そうして仕事に向かった母がいなくなって、久しぶりの昼食を食べた。食べながら、泣いた。出久が大勢の誰かを守るためにヒーローになりたいのなら、名前はたった一人の母を守るために傍にいたいと思っていた。出久は母を置いていくばかりだとも思っていた。けれど、名前だって同じだった。
* * *
先日の襲撃事件を受けて、雄英高校は全寮制となることが決まった。その件についての説明と謝罪を兼ねて行われている家庭訪問は、緑谷家だけ日付がずれ込んでいる。同じく雄英の生徒で今回の事件の被害者である名前が不在のままではできないだろうということで、彼女の退院を待ってから行われることになったのだ。
――雄英に行かないとだめかと、今までずっと涙も弱音も押し殺してきた母が零した本音。あれから見舞いに来る母はいつも笑っているけれど、雄英の話題だけは避けていた。
一昨日にきた友人たちや心操からのメールには雄英に通い続けることを報せていて、それに、曖昧な返信を返すことしかできなかった。
コン、コン。
躊躇いながらノックされた音に携帯から顔を上げた。スライドされたドアの向こうで、同じ髪が跳ねる。
「――いず、ひさしぶりだ」
「うん。…向こうで別れてからだから、五日ぶり? くらいかな」
お菓子の入った袋を提げて後ろ手にドアを閉める出久の顔に、思わず笑った。
「私、怒ってそうに見える?」
「え、そんなことなさそうだけど…?」
「なら、怒ってないんだよ。私」
こてんと小首を傾げた彼は、ベッド脇の丸いスツールチェアを組み立てて座った。ギシリと軋んだ音のあとに、沈黙が降り落ちる。どうやら、自分の顔が今どんなものかを知らないようだ。一瞬下げた目線の隙に、同じ表情を作ってみせると気配に気づいたのかすぐに彼はまた顔を上げて、それから一層に目元を歪めた。
「なに、その顔」
「真似してみてる」
「…そんな眉間に皺寄せてないよ」
同じパーツで作った表情を頑なに否定するので、彼の眉間に指を伸ばしてわざとらしくこすりつけた。
僕のせいで。囲まれたあの空間から救け出してくれた出久はそう言った。
家族なら何かしら使えるかと思って。赤い瞳を細めて見下ろすように死柄木は言った。
出久が戦っているものと無関係でいたくない。合宿に行く前の出久に名前はそう、言った。
彼は瞳の縁を震えさせながら、それでも言葉を探すように唇を噛んでいる。
「…死柄木って人が、言ってた。個性やヒーローがいない世界だったら、こんなふうに、傷つかなくて済んだのになって」
眉から離れた指先が、首筋を辿る。
皮膚のひきつり。変色した表皮。手の痕みたいだと、彼女たちは言っていた。あの男の指の先まで張り巡らされた怒りは痕になって、この身体に残り続けるのだろう。
「…あの人が、いずの、敵なの?」
彼は頷いて、そのまま頭を垂らした。膝の上に乗せられた手は固く握りしめられていて、小刻みに震えている。
この拳は、いつか誰かを助けるために誰かを傷つけてしまうこともあるのだろう。それは、何度も出久の心臓を殴りつけていくのかもしれない。
「…名前、」
誰もが眩しいと思うような背中になってしまうとしたら、その隣には誰がいてくれるのだろう。何度も何度もかなぐり捨てられた心臓の傷口を縫い合わせてくれる誰かが。――恐らく、敵や窮地を前にしてその隣に立つこともできない名前には、出来ないことだ。
「遠くに、いる人は救えないんだ。目の前にいる人しか、手が届かない」
皺だらけのズボンに、色濃い染みが落ちていく。
「たまたま、名前もかっちゃんも、救け、られた、けど、もしまた、同じことがあったとしたら――」
僕は。
母と同じ嗚咽。ドアを隔てて、あるいは耳元で沈んでいく音。
丸まっていく背中にまで震えは広がっていた。
絶対というものや確実なことはありはしない。彼がここで今度もまた救けに行くからと、そう言わなくてよかった。有り得ないものを背負って動く足は重いだろう。喉の奥に詰まっていく息が、声が、縫い合わすこともできない程の傷口になってしまうかもしれない。
「――こんな世界じゃなかったらっていうから、じゃあどうするのって聞いたんだ。そうしたらぶっ壊すんだって。だから、私、つい言い返しちゃった」
せめて、名前の前でだけは、心臓を殴りつける拳がなくなりますように。
「それに、私、個性で自分のこと少し守れたよ。勝己君が守ってくれたことに変わりはないけど、私でも、何とか出来た」
だから、だから少しでも、遠くにいかないで。オールマイトのように、誰彼の希望も期待も、全部背負ってしまわないで。
ベッドから素足を投げ出した。降り立った床は硬く冷たくて、名前に自覚を促していく。
「ねえ、出久。私、大丈夫だよ。一人でなんとかするなんて言えないけど、でも、もし私が手が届かないくらいどこかに行っても、自分で何とか時間は稼げるくらいになるから、そうしたら、見つけに来てね」
名前は床に膝をつけて、抱え込む彼の頭ごと抱きすくめた。
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