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それから二日後、再検査の後異常がないことを確認するとそのまま退院となった。二週間は安静にして過ごしてねと見送った先生に母は何度も頭を下げていた。
いつも以上にゆったりとした運転をする車中には荷物持ちの出久も後部座席で隣同士に座っていて、ラジオから流れる最新のヒット曲が無言の隙間を埋めている。
本当であれば、合宿を終えた出久を迎えにいく車の中であるはずの光景だった。出久の膝の上で抱えられた荷物は彼のものではなく、その唇も、強張っている。
――もう大丈夫だよ。
あの真白い病室で、そう言った後から、出久は不意に黙り込むようになった。もしかしたら、彼の心臓に塞ぎきれない大きな傷を作ってしまったのかもしれない。
――救けに来なくても大丈夫だよ。そんなふうに言えていれば、良かったのだろうか。だとしても現実は無理だ。どうあがいてもただの名前にはそんな芸当ができようはずもない。ならば、大丈夫ではなくて見つけてねではなくて、救けに来てねと、言えばよかったのだろうか。他にどんな答えが、あったのだというのだろう。
分からない。あの夜から、まだゆらゆらとした微睡みの中を泳いでいるようだった。
* * *
リビングの窓を開ける。外は雲一つない快晴で、正午も過ぎた日差しはすでに橙色をまとっている。
退院してから五日目。今日はこの後オールマイトが来訪する予定になっていた。
昼食の片づけをする母の傍らでダイニングテーブルを拭き、出久が床に掃除機をかけはじめる。
あの日から、この家の中の空気はどこか重苦しい。出久の表情を見れば、彼もまたそう感じていることくらいよくわかった。
重苦しいのに、どう言葉にすればいいのかわからないのだ。どんな言葉を吐いたって、名前が連れ去られた事実も、頭を縫った傷も、出久が抱えている個性も、将来も、夢も、なにも変わらない。お互いにそれが分かっているからこそ、この重苦しさを払拭させるための有効な言葉を探すことができないでいるのだろう。
頑張れ、頑張る。意思の話だけの問題ではないのだ。
テーブルを拭き終えて、今度は手持ち無沙汰にカーペットを粘着テープのついたクリーナーで転がしていた。オールマイトが来る時間まであと三十分ほど。自室にこもるには短く、リビングで何かをするには少し長い。カーペットの一面をころころと満遍なく埃を粘着させて、ボックスに戻す。掃除機を片付けて戻ってきた出久は、ソファに埋もれて携帯をいじっていた。
キッチンでお茶の用意をする母を横目見て、小さく、息を吐いた。
「……」
――もしも。このまま雄英に通い続けることができなくなったら。
昨日の夕飯の席で、母は通っていいよと決して朗らかではない顔をして言った。おそらく、あれは出久の勢いに折れただけだ。夜半にやはり、押し殺した声を聞いた。今日、オールマイトと話をしても、まだ承諾が得られるかはわからない。
二学期から始まる心操との特別訓練で、やりたいことは決まっている。それができなくなってしまうことは、ああして連れ去られたあの日の自分と何も変わりはない日々になり、そしてそれは出久にとっての鉛であり続けてしまう。
毛足の長いカーペットを無意味に撫でつけて、絡みついていた糸くずをこそぐ。漸く、インターホンが鳴った。ロビーのロックを解除して、五分足らずで再びの訪問を告げる音に母と出久が弾かれるように玄関へと向かうさまを後ろから見ながらついていく。
ドアを開けた先で、痩せた体躯のオールマイトが笑って立っていた。
「今日は、お忙しいところすみません」
「い、いえ! わざわざご足労頂いて……あっ、上がってください…」
目の前で初めてあの平和の象徴を見た母は大分緊張しているのか、言葉を詰まらせながら中へ案内していた。
「――今日は、名前君。傷の具合はどうかな」
「…もう全然です。まだ、あの日のお礼を言えていませんでした…ありがとうございます。…えっと、オールマイト?」
この姿でも、彼はもうオールマイトであることに変わりはない。八木もオールマイトも同じ人物であるというのに、ここで八木さんと呼んでしまうことは、恐らく彼の中のオールマイトを潰えたものにしてしまう気がした。
オールマイトは「君が無事でよかった」と、少しばかり苦いような顔をして笑った。
リビングのテーブルに彼が座るのを見届けてから、コーヒーとカステラを並べて席に着く。一人余るせいで、出久の隣に並べたテーブルからはみ出した椅子に名前は腰かけた。
差し出されたコーヒーを断ってから口を潤すように一口だけ流し込み、彼は早速ですがと口火を切った。
「えー事前にお話がいっているとは思いますが、雄英の全寮制について…」
「ハイ…えとその件なのですが……、私、嫌です」
「お母さん!? 昨日はうんって…!」
ガタリと立ち上がった出久を見上げることもせず、母はただまっすぐにオールマイトだけを見ていた。
「…出久は"個性"が出なくて、それでもずっとあなたに憧れてきました。でも…奇跡的に"個性"が発現してから、雄英に入ってから、出久、どんどんボロボロになっていくんです」
出久の腕は、これ以上怪我が増えると動かなくなるかもしれないこと。先日の神野区での戦いが、出久のこの先を、予兆させたこと。
「"無個性"のまま、ヒーローの活躍を嬉しそうに眺めているだけのほうが、この子は幸せだったんじゃないかって…思ってしまったんです」
――ヒーローを続けていきたい出久の気持ちは、誰にも止めることができないものだと思う。母の気持ちも分かる。名前の気持ちは母に近いのだ。
オールマイトのように遠くに行ってしまうことの孤独と恐怖を薄っすらと感じている。しかもそれはぼんやりとした未来なんていう不確かなものではない。オールマイトのたった一本の髪を食らったあの日から、忍び寄るように背後にずっと、その感覚は潜んでいる。
それでも、ヒーローになるよと告げた言葉の強さに、それ以外の道はきっとないのだろうとも確信した。出久は出久で、そう決めた。名前の気持ちを背負って、そう告げた。
「それに……どうして、名前は敵に連れ去られたのですか」
「っ!」
「ヒーロー科でもなく、合宿にも参加していなかったはずの名前が、どうして、あんな傷を負わないといけなかったんですか」
敵の正体を、母は知らない。死柄木の目指す思想も、そこに出久がいたことも。
オールマイトと出久が、息を飲んだ音がした。水道から水滴が落ちる音ばかりが耳について、誰かから漏れる呼吸の音に、ひどい緊張感が背筋を這っていく。
――答えがない。分かっている。無関係でいたくないと、ただ一言、そういってしまった。
膝の上で握りしめた拳が、震えた。
吐き出した言葉を後悔にしたくない。炭谷は、だから笑うんだと、何度も泣いて、顔を歪めていた。
息を吸い込んで、顔を上げた。オールマイトの青い双眸に目を細めて、母を見た。
「…私、雄英じゃないと嫌」
「名前」
「お母さん、私、知りたい。出久がヒーローを目指していくなら、私はどうすればいいのか知りたい」
笑った。こちらを見やる出久の顔が泣きそうな分だけ、笑った。
「――私は、貴方たちが傷ついていく姿を見ていられるほど、そうして応援してあげられるほど、肝も据わっていないのよ」
「…ッ」
「っいず!?」
震える唇から漏れた弱音に、出久は唐突に背を向けて自室に駆けていった。一瞬呆けたあと呼び戻そうと立ち上がった母と同時に、開け放たれていた自室のドアからまた出久が顔を出す。手には紙切れを一枚、持っていた。
「お母さん、オールマイト。手紙、もらったんだ。合宿の時に救けた子から。ヒーローどころか"個性"すら嫌ってた子が、ありがとうって……言ってくれたんだ。まだ、めちゃ心配されててダメダメだけど、それでも、一瞬でもこの手紙が、この子が、僕をヒーローにしてくれた」
手紙を見下ろして、それから出久はぎゅうと目を瞑った。いろいろな言葉を噛みこんで飲み下して、息を継ぐために面を上げて名前の手を掴む。
「僕は、雄英でなくたってどこでだって、ヒーローになる。そんで、もう絶対、名前が傷つかなくて済むように、……っちゃんと、守るから」
絶対、守るから。
出久の歪んだ右手が強く手を掴む。いつの間にか大きくなった手のひらにすっぽりと収まる彼女の手の方が、昔は大きかったのになあなんて頭に過った。
視界が揺らいでいく。俯けばぼろぼろと零れてしまいそうで、必死に、母を見た。
「順序が間違っていたこと、誠に申し訳ございません」
静観していたオールマイトが筋肉を隆々とさせて床に膝をついた。それから額をこすりつけた姿に涙が引っ込む。
「出久少年が私の後継に相応しいと…すなわち、平和の象徴になるべき人間と思っております」
モニター越しの言葉が、現実になる。
戸惑う母の声に被せて彼は言葉を続けた。
神野区でのような血生臭さのない未来になるように、隣に立って、そうして、二人のことを、命に代えてでも。
ずび、と隣から鼻をすする音がした。
「名前にも、出久にも、幸せになってほしいだけです……だから命に代えないで。ちゃんと生きて、守り育ててください」
ちゃんと生きて。
母の涙声が、静かに溢れた。
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