60.5



蝉の声が波のように押し寄せて、アスファルトの上で陽炎が揺蕩う八月中頃。出久と名前は家を出た。
ベッドと机を残して何もなくなった部屋を見て、後ろ髪を引かれる思いで、それでも前を歩く出久に置いていかれないように電車に乗った。冷房が効きすぎていて、頭上から注がれる風にくしゃみを一つする。もう、こうして毎日電車に乗ることもないのかとぽつりと零せば、出久はそうだねと一言返すだけだった。
雄英高校の校門をくぐり、本校舎から外れた道を並んで歩く。

「…なんだか、変な感じ」
「変?」
「同じ学校に通ってて、ずっと一緒にいたのに、もう殆ど会うことなくなっちゃうでしょ」


普通科と授業が重なることはない。クラスも離れていて、これから住む寮は二つ隣だけれど建物自体が違うのだ。
出久は瞬きを数度落としてから、お昼たまに学食で一緒に食べようよと笑った。
時間の指定をしないと会うことがないという感覚には、しばらく慣れそうにない。そうだねと笑うと、何となく胸が空いた。寂しいねとは、言わなかった。

A組の寮の前で切島たちが話しているのを遠目で見つけ、出久にそれじゃあと手を振った。別れるよりも先に、切島と麗日が名前を見つけると、勢いよく駆け寄ってきたので足を止める。


「名前ちゃん、テレビ見て知って…大丈夫やった…?」
「うん、ありがとう……切島くんたちも、本当に、あの日はありがとう」


彼は麗日を横目見て少しバツが悪そうな顔をした。近くにいた轟に目を向ければ、聞こえていたのかこくりと頷いた。飯田は寮の入り口に近い方にいたので声もかけづらかったのだが、有耶無耶にしていいものでもないなと思い、意を決してA組の中を突き抜ける。


「飯田君」
「名前君! 元気そうで、よかった」
「うん。…ありがとう、救けてくれて」


この話は、もしかしたらタブーだったのかもしれない。飯田でさえも少し周囲に目を配らせるような仕草をしたので、あまり長居することも憚れてそれだけ伝えると小走りに集団の中から抜けていく。
爆豪は、まだ集まっていないようだった。



C組の寮の前にも大半の生徒が集まっていて、近づくなり皆様々な視線を浴びた。


「名前! 大丈夫かあ、やっぱテレビで言ってたの名前だったんだよね!」


こちらに気づくと、柚希がいの一番に両腕を広げて抱きすくめにきた。テレビではあまり名前が出されてはいないようで、確定的ではなかったようだ。確かに言われてみればメールもそんな雰囲気が出ていた気がする。
いつもの三人が口々に心配をする声をかけてきてくれて、なんだかようやく、日常に戻ってこれたのだと思った。


「――緑谷さん、許可もらえたんだ」
「心操君」


バックを右肩にかけてやってきた心操は、地面にそれを置いて首をまわした。
よかったねと、語尾を曖昧に上げながらそう言った彼に、うんと笑って頷く。――母を、置いてきてしまったけれど。雄英で、進んでいかなければならなかったのだ。


「二学期から、またやるよね?」
「その予定。相澤先生から、始業式のあと呼ばれてる。緑谷さんも一緒に」


相澤は個別連絡の手間を省くために、すべて心操への伝達で済ませている。
二学期が始まるまであと二週間ほどあるが、その間の個性使用はやはり普通科には許されていない。またぼちぼちトレーニングしようと笑った心操は、夏休みの事件のことに一つも触れてはこないまま、寮の中へと入っていった。

寮の部屋割りはあらかじめ決めてある。好きなように決めていいと言われていたので、三階の四部屋を友人たちと占領した。一回の共有スペースは誰彼もいるので、ひとまず端の名前の部屋で課題確認兼お泊り会なるものが決行された。


「名前なんで殆ど終わってるわけ」
「…入院してた時、やることなくて」
「むしろなんで柚希は終わってないの」


そんなことだろうと思ってたよ、と間延びした紗代の声に笑い声が響く。
くだらない話をして笑うのも久し振りで、その日は久しぶりに夜中に一度も目を覚ますことはなかった。

ヒーロー科は入寮の翌日から、八月末に行われる仮免許試験に向けて授業が始まるようだった。
目が覚めても、隣の部屋からあの聞き慣れたアラーム音はしない。歯を磨いているときに隣にいるのは大抵いつもの三人で、じゃんけんをしてから口を漱ぐ順番を決めていた。朝食はパンかご飯かと言い争って、それもまた勝負事で決めては負けた方が昼ご飯になる。クラスで集まる時もあれば、仲のいいグループだけで食事を済ますこともあって、大概が自由に過ごしていた。
八月最後の定期検診を終えて運動復帰の許可が下りた最終週のある日、夕方頃に何日ぶりかのジャージを引っ張り出して寮の前で準備運動をしていた時だった。


「運動すんのいつぶり?」
「心操君。――二週間…三週間くらいかな」
「今日は軽めにしたほうがいいんじゃない?」


心操は手に持っていた重りをどさりと地面に投げ置いて、同じように軽く体を動かし始める。
まだ夏も終わりそうにない空気に既に汗はじっとりと掻いていて、携帯のタイマーをいつもの通り三十分に設定しようとして指を止めた。


「…報道見て、緑谷さんだろうなって思った。普通科だったこととか、関係性あったかどうか不明で名前は伏せられてたけど、多分皆そう思ってる」


マジックテープで両足に重りを止めてから、彼は数度高く跳ね上がる。


「…敵に捕まってた時にね、個性、使ったんだ。初めて人に向けて、足手まといに、なりたくなくて…。でも、多分あのままじゃダメなんだと思う」
「緑谷さんは、ヒーローにならないだろ。なら、今以上に頑張る必要ってある?」


怖い思いまでしてさ。
最後に呟いた優しさが、彼の本音なのかもしれない。ちらりと様子を窺うように視線を寄越す心操に向き合った。


「…うん。私、もっと頑張らないと……出久に、」


守ると、言わせてしまった。病室で「僕は、」と揺れていた言葉の先にあったものは、恐らく、必ず救けに行くことができるかどうか、だったのだろう。きっと、もしかしたらそれは出久の揺れていた本音だったのかもしれない。
――目の前で爆豪を救けることができなかったと聞いた。出久自身もひどい怪我を負っていて、あの日だって退院したその夜のことだったという。手の届く場所から、救えなかった自責。オールマイトの引退。だからこそよりヒーローにならないとと願う自分にかける期待。オールマイトだったなら、ヒーローなら、そう何処かで責め立てる声に、そう言わせてしまったのではないかと思った。
そんなものの真意が言葉もなく分かるはずもないというのに。
無意識に下唇を噛んでいた名前に、心操は目を伏せた。


「…よく分かんないけど、緑谷さんて結構考え込むタイプっぽいし、…その、まあ、話くらい、いつでも」


不自然な言葉尻のあと、心操は名前の言葉を待たずにお先にと走り出していってしまった。
夏休みが、もうすぐ明けようとしていた。

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