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じっとりとした汗の気持ち悪さに目が覚めた。いつもより一時間ほど遅く起きると、携帯には既にメッセージが一通入っていた。

『仮免試験、行ってきます。終わるの四時頃らしいから、また連絡するね』


昨夜のうちに冷房のオフタイマーの設定を忘れていた部屋の中は、少し、肌寒かった。



一階にまで降りると、夏休み最終日ということもあるのかいつもいるようなメンバーは見当たらなかった。代わりに大テーブルに珍しくジャージ姿の心操が座っていて、朝なのか昼なのか分からないご飯を食べていた。


「――あれ、心操君珍しいね。寝坊?」
「あー、うん、まあ、そんなとこ。てかそっちこそ」
「うんー…目は開けてた」


茶碗に盛られた白米はあと僅かで、自分で作ったのか、ほうれん草の入った味噌汁のいい香りが午前十一時の微妙な空腹感を引き連れる。友人たちは最後の長時間バイトだと早々に出勤しに行ったので、名前は一人で昼でも食べるかと、共有の食材が入った冷蔵庫を開けた。玉葱やじゃがいもは戸棚から吊るしてある。卵や葉物など一通りは常に揃っているようになっていて、朝夕は基本的に自炊をしろとの命令だ。料理ができるようになるまでも、プルスウルトラの精神なのだろう。
結局眺めただけで作る気力はわかず、静かにドアを閉めた。


「なんだ、緑谷さんも食べるなら待ってればよかった」
「そしたら心操君の料理が食べれたなあ、残念」
「予約制だから早めに言わないと」


ごちそうさま、と両手を合わせて食器をシンクにさげに来た心操は、以前よりも笑いながらそんな冗談を言うようになった。
明日から、一学期に引き続き個性訓練が始まる。彼は二年次の転科も見据えたさらに難易度を上げた訓練内容に段階を上げていくだろう。


「心操君さ、お願いがあるんだけど」


心操は洗い終えた食器をラックに立てて、水の滴る手を胸の前でぶら提げながら顔だけ振り向かせた。


「…捕縛布の扱い方を、教えてほしい…です」
「――は?」


目を瞬かせて、それから名前の言葉を咀嚼するように視線を左に泳がせた後、「いや、なんで?」と心底理解できない表情を浮かべた。
心操が捕縛布を相澤から習うのは、彼の個性が純粋に物理攻撃に向いていないからだ。多勢を相手取るには些か弱く、また相手が肉体強化や近接強化の個性であったとしてもある程度対応できるようにするための一手。つまりは、対敵した相手を無力化させるための手段。
――ヒーローにならないのに。わざわざ言葉にはしなかったが、彼の目はそう告げている。
ただの一般市民ではだめだ。この先、出久にとって不利な状況を作らせないために、出久が要らない重荷を背負わなくて済むように、自衛の術がいるのだとしたら、今までのままでは、恐らく足りない。何があればいいのかは、まだ、思考が滞っているけれど。


「空いてる時間でいいの、息抜きとかで、いいから…」
「教えるのとか、それは別にいい。俺でいいのなら、全然かまわないけど、そうじゃないだろ」


数人の話し声が、廊下から響いてくる。
それでも、心操は気にする素振りも見せずに話を変えようとはしなかった。


「俺はヒーローになりたいから、そのために必要なことを選んでるつもりだし、これからの特訓だってそうする。でも緑谷さんはそんなの要らないはずだろ。この間は、何も言えなかったけど…個性訓練だって、――」
「守るって、言わせたの。ヒーローになって、絶対守るからって…でも、そんなの違う。私は出久の家族で、たった一人の兄妹で、ヒーローだから、守るとか守られるとか、絶対、そういうふうなの、」


がちゃりとドアが開いた。いつも遅起き組の男子グループが歯ブラシを銜えながらやってきて、シンクの前で向かい合っているこちらを見て「修羅場中だった?」と顔を見合わせる。
そういうんじゃないよと笑って首を横に振って、身を翻した。心操が何か音を零したような気もしたけれど、これ以上共有スペースで会話を続けることも憚れたのか、何も言葉を継がなかった。
彼らの横を通り過ぎて、非常階段から三階まで駆け上がった。
今頃、出久は仮免許試験の会場で何をしているのだろう。きっと今までであったなら前日の夕食の場で、今まではどういう傾向で、今年は時勢がこうだから対策としては――なんて、試験に向けて熱弁していたに違いない。母も名前もヒーロー科の云々は全く知らない範疇だったけれど、何より思考を止めない出久のそういうところに感心していただろう。
毎日、かっちゃんや切島君が、訓練で、授業で、僕も今度は。そんな言葉が飛び交っていた。普通の出久が、そこにいた。
――仮免許を取得すると、ヒーロー活動の一部に参加できるようになるそうだ。
ポケットに入れた携帯が震えた。三階の踊り場で立ち尽くしていた名前は、携帯を取り出してメッセージを表示させる。


『夜飯のあと、寮の前で待ってて』


靄が晴れない。どうすればいいのか、まだ探している。言葉も、選択も。何が正しいのか、分からない。



六時頃に夕食をC組全員で囲って食べた。明日からの授業に向けて意気込みを、なんてクラス委員長が茶化されているのに笑って、手分けをして作ったおかずを口いっぱいに頬張った。大テーブルを二つ繋げて囲んだ席の対角線上に心操がいて、なんとなく、視線はそらし続けていた。そういうのは違うだろうと、言った言葉でさえも、本当は正しくはないのかもしれない。一瞬でも目を伏せてしまえば思考が絡まる気がして、かき消すように唐揚げを一口で食らいつく。熱すぎて涙目になったのを、柚希に指を差されて大笑いされた。

片付けを済ませて各々の自由時間になったところで、ジャージに着替えて外に出た。玄関の前の数段の階段に、彼は座り込んでいた。


「…捕縛布は、結構重いんだ」


心操は立てた膝の上に伸ばした両肘を乗せて、ぶらつかせた手を見ていた。
その腕が入学当初に比べてすっかり筋肉質になったのは、もうずっと知っている。


「それに、相応の長さのものを持ってないと意味がない。常にあんなの持ってるわけにはいかないなら、やっぱり、緑谷さんには必要ないと思う」


手だってこんなんだ。
指を広げてこちらに突き出された右掌。腕から指まで擦り傷にミミズ腫れだらけでお世辞にも綺麗とは程遠い様相だった。
再び視線を落とした彼の隣に、膝を抱えて座り込む。


「…どう見たって、焦ってるよ。今のあんた」


珍しく言葉が乱れたのは、それだけ本心からそう思っているからだろう。


「……いらないって、思っても、できることがあるならしたい」


――出久からは四時を回った頃に、仮免許証の写真付きで合格を知らせるメッセージが届いた。
遠くなっていく。追いつけないスピードで、出久はヒーローになっていく。ヒーローという職業ではない、別のものに。


「――俺だって守りたいって思うよ。トーゼン」


心操は項を掻きながら、俯いていくしかできない名前を横目見た。


「それってさ、悪いことじゃないだろ。ヒーローってそういうもんだと思うし、多分、ヒーローじゃなくたって、そう、思う」
「…うん、」
「あー……いや、だから、…自分にとって大切な人を守りたいとかって、自然だと思う。個性とか関係なく、笑ってて、ほしいし」


膝の隙間に額を埋めて、目を瞑る。
分かる。出久の言った言葉のどこまでが本心かなどわかりようもなければそんなものに線引きをする意味もないことくらい、わかっている。けれど、このままでは出久は、オールマイトの影に潰されてはしまわないだろうか。次の平和の象徴。オールマイトの後継。ヒーローとして戦い続けるたび、隣に立つのはオールマイトではない。彼は理想の師であって、そういうものではないのだろう。
オールマイトだったら、きっとどんな困難であったとしても必ず救け行こうというだろう。その結果があの大手術の痕だったとしても、彼は全てを成し遂げてしまう。そうなれるよう応援していればいいのだろうか。


「……そしたら、私は、あの時、救けに来てねって、守ってねって、言えばよかった…?」


そう言っていれば、この靄は少しでも晴れていたのだろうか。ただ、対等でありたかっただけだった。家族として、隣に居続けたいだけだった。庇護の対象ではなく、緑谷名前として。
心操は「俺は緑谷じゃないけど」と強張った声を零して、それから息を吸った。


「…個性は隣人だって、前言ってたけど、家族もさ、同じようなものだと思う。無関心じゃなくて、言い方悪いけど別の人だし、隣にいるだけで分かり合えるなんてこと、ないと思う」


でも家族だから、話せばいいんじゃない。
喉の奥から少しばかり溢れた音が、蝉の声と夜の生温い風に攫われた。

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