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夏休みの間、個性について勉強をしていく中で考えていたことがある。
名前の場合口からの発火だが、その作用を起こしているのは唾液成分だ。唾液の量で炎が多少なりとも変化するのは一学期の時点で実験済みだった。発火の際の吐く息の量が発火量の増減に大きく影響を与えるので、矢張り最優先にこの呼気量の調整だ。その次に唾液量。
次いで、コントロール。初めに確認したのは心操から炎をさける瞬間。蝋燭の炎もある程度可能だったが、神野区での比ではない。あの時出し得る最大火力をコントロールできたのだから、何かきっかけがあるはずだ。
下唇をつまみながらある程度思考をまとめていく。時間は有限。だからこそ、我武者羅に吐いているばかりでは何も変わらない。
「…ていってもあんまり覚えてないし…どうだっただろうなあ…」
「……そういうところ、緑谷君にそっくりね」
「えっ」
――ぶつぶつと思考をだだもれさせるあの喋りは名前自身少し不気味に感じていたというのに。何となくショックを受けたような心持がして思わずに顔に出してしまえば、ミッドナイトが取り繕うようにそんなことないかもと首を横に振った。
(思考は止めない。でも考え過ぎても仕方ない。実践あるのみ)
ぐぐと伸びをして、まずはか細い呼吸から始める。唾液の量は最小限に、息は細く小さく。直径が掌大の大きさの炎になったが、ここから息を途切れさせずに意識を炎に向ける。方向は変わらない。左に動いてほしいんだけどなあ、なんて念を込めたところで動かない。そろそろ息が持たなくなってきたところで、少し強めの風が吹いた。右から左に流される炎。このまま勢いにのって動いてくれたら、そう右手を小さく動かせば、ぐにゃりと大きく向きを変えた。
「! っぶは! ――!」
げほげほ、と久し振りに肺の全部を吐き出したような呼吸に咽ながら、ゆるゆると思考が繋がっていくのを感じた。
「…なるほど、行きたい方向があるってことね」
神野区での炎は確かに、身体は放り投げだされながら火を吐いた。何かの力で引っ張られながら、僅かに左に回転するような引力じみたもの。炎は右から左に向かって渦を巻いていたような覚えがある。つまり、それが自然な風であろうと作為的な頭部の動きであろうと、何かしら力が働いている方向にであれば炎は動くということだ。
今まで屋内での訓練だったがために気づかなかった。
課題の一つ、何とか先が見えてきた。
あの後、暴発一回、突然の突風に見舞われた大火力一回の計二回、心地よい眠りにあった。心操に寧ろ顔がすっきりしていると指摘されるほどには、ほんの一瞬でも今までにない昏倒するかのような安眠だった。
「…そっちは、…うん」
「――見たまんまって感じ」
反対に、彼はボロボロだった。擦り傷多数にジャージはよれて、腰を打ち付けたのか身体はくの字に傾いている。
多勢を相手にはなかなか効力の薄いようで、洗脳するもすぐに解けてしまって放り投げられ、また洗脳させてを繰り返したようだ。結果、このボロボロ具合ということは洗脳させることができる限界人数は少ないことが窺えた。
「…また今度みてくれるって。ミッドナイト先生が」
「エクトプラズム先生も言ってた。しばらくは個性伸ばしできそう」
寮の短い階段でさえ老いたそれのような上り方をする心操に思わず笑ってしまえば、じろりとした目つきを返された。
「これ、一昨日の緑谷さんだから」
「…明日はγで自主練してこよ」
当然俺も行く、と告げた心操と、明日の状況は逆転することは想像に難くなかった。
その週の日曜日、ヒーローニュースでA組の切島と麗日、蛙水の三人が活躍した記事が流れてきた。インターンは全国各地に飛び回るようで、出久も今頃漸く寮に戻ってきた時間だろう。
自室のベッドに埋もれながら、出久にメッセージを送る。
『寮戻れた? おつかれさま』
『今さっき戻ってきたとこ。ヒーローニュース見た?』
『切島君たちの? 見たよ』
――インターンの内容は、事件の大小にかかわらず口外することを良しとしていない。とくに大きな事件に発展した場合にはヒーローに厳重な緘口令が敷かれる場合が多く、出久もそれにならってあまり活動については話をしてはこなかった。ただ、
「…もしもし? どうしたの、」
『あ、もう寝るとこ?』
「ううん、まだ十時だよ。早すぎでしょ」
『あはは、確かに。なんか長く電車乗ってると時間感覚ずれるんだよね』
時折、ふいに電話がかかってきた。
『名前、最近特訓してるの?』
「してるよ。……運動場γのタイムアタックとか」
『そうなんだ、個性の方は?』
「相澤先生がいないから、そんなに」
進捗の報告ができるほどに成長はしていない。
ぽつりぽつりと、取り留めのない会話が静かに積もる。授業の話、この間発売したコミックの話、そうして、会話が途切れる。
沈黙が、電子音の雑音に紛れる。階下で聞こえた笑い声が、ひどく遠いような気がした。
『…オールマイトがさ、もしももうすぐ死んじゃうかもしれないって、そういう運命が決まってたとしたら、そうなったら、どうしよう…』
震えた声は、漠然とした未来の話をしているわけではないようだった。近い将来起こりうる可能性の話をしていて、どうしよう、と呟いた音は困惑している。
――死。誰にでも訪れる最期の旅路。その瞬間がどれほど、凄惨で、幸福で、悔恨で、充足で、仮令どんなものであったとしても、等しく潰えるもの。
「……グランファはね、二か月くらい、目を覚まさなかったの」
身体中に張り巡らされたチューブに注がれる透明な液体が彼の生命を繋いでいて、喉に差し込まれる太い管から取り込む酸素で呼吸をしていた頃。
搬送された時、体幹前面部の火傷と大量の出血、それに伴う低酸素脳症で、脳幹の機能が著しく低下した。そのせいで自発呼吸さえ初めのころは覚束なく、徐々に回復をしていったところで、一向に目を覚ます気配がなかった。
喉の管は取り除かれ、酸素マスクが吐いた呼吸で白く曇る。息をしているのに、まるで、ゆっくりと死んでいくようだった。
「…心電図図る機械があるでしょ? ぴっぴって、音がずっと鳴ってるやつ。あれが、止まったら心停止したってことになるから、そうなったら、もうほぼ助からない…殆ど毎日、あの音を聞きに行ってた。病室に入る勇気はなくて、部屋の外から、ずっと、あの音を聞いてたの」
『…うん』
一月が経って、雨がよく降る季節になった。中庭の紫陽花が咲き始めていて、あの花が見頃を迎えるまでに、どうか目を覚ましますように。毎日、祈っていた。五月を過ぎ、六月になっても、彼は一向に瞼を動かすこともしなかった。
「…六月も半ばになって、ようやく意識を取り戻して――私が、それからずっと泣いてばかりだったから、グランファが、ちゃんと生きてるよって、言って笑ったんだ」
落ちくぼんだ目。こけた頬。しわがれた皮膚が、寄り合うように口角を引き上げる。
「オールマイトは、その話をしたとき、なんて言ってたの?」
『……ゴールが見えたのなら、そこまでひた走ろうって…でも、運命なんて捻じ曲げてみせるって、生きるって』
「……未来って、わかんない。そういう運命だって言われたって言われてなくたって、やっぱりずっと、不安だよ。でも、グランファも生きてるよって、オールマイトも、生きるって、そう言ってくれたなら、ちゃんと一緒に生きてって、そう、信じて願ってるしか、ないんじゃないのかな」
見えないものだ。遠いのか近いのか、それさえも分からない不確かなもの。オールマイトやグランファだけでなく、それはいつか、出久にだって降りかかるものだ。
電話口の声が止んだ。マイクが鼻をかむ音を拾う。名前は壁に背中を預けて、ミュートのボタンを押して声を殺した。
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