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数日後、出久は授業終わりにインターンに向かった。前日に、授業のある日まで大変だねと布団に潜りながらマイクに向かって話せば、そうだねと苦笑い混じりのひっそりとした声が返ってきた。少しの言葉の往復の後切れた通話の向こうでは、出久はかたく目蓋を閉ざしながらも何かを追いかけるように思考していたのかもしれない。
名前はといえば、その日は午前中に家庭科の実技があった。好きなものをしっかり作れという目標のもと、名前の班はシュークリームを作ることになった。寮生活のデメリットはコンビニが近くにないことだというところがいかにも普通の高校生らしく、コンビニスイーツに飢えたクラスメイトがないならば作ればいいと意気込んだ結果だった。
大量生産をしたおかげで名前の手元に三つほど残っているシュークリームの行先を、寮に帰りながら頭の中に浮かんだ顔の数を数えてみる。
つい先ほどまで家庭科室の冷蔵庫に眠っていたそれを保冷剤ごと袋に詰めて右手に提げていて、空いた手で寮の玄関を開けるとリビングの方から心操が丁度やってきた。
「あ」
「え、何」
彼の班は確か、お昼前だというのにがっつり主菜ものを作っていたと思う。
心の中で掌を打ち、簡易包装をかけた一つを袋から取り出した。
「心操君シュークリーム食べれる人?」
先に手が動いたおかげで靴を脱ぎ忘れていた。靴を踵を使って器用に揃えて脱ぎ、両手が塞がっているのでスリッパに履き替える前に心操の眼前に突き出した。誰が用意したのか、猫の耳がついたスリッパを当然の如く履き慣らしている心操は、突き出されたそれを右手で掴む。ありがとう、と言った彼は、お礼に名前のスリッパを出してくれた。友人三人とお揃いで買った動物の足型シリーズで、名前のものは犬の足を模している。スリッパの底は肉球の形をした滑り止めになっているので、なかなか可愛い――。
「じゃない、心操君そのスリッパなに?」
「? 思考の途中で話振らないでくんない」
「え、ずっとそれ履いてた?」
「いや、なんかよく分かんないけど昨日もらった」
クラスメイトにもらったというスリッパは三毛猫模様だ。それなりに背も高く体格も良くなってきた心操の足元にひっそりと存在を主張している猫に、爪先から頭上までの往復を二回ほどしたところで彼から怪訝な目を向けられたので、適当に笑って横を通り過ぎる。
恐らくそのクラスメイトも、こんなにも意外性も含めて心操に似合うとは思いもしなかったのだろうなと笑った。
「あ、この後γ借りたけど」
振り返って行きますとすぐさま返事をして、階段を駆け上がる。冷蔵庫に残り二つを放り込み、ジャージに着替えて玄関に座って待っていた心操と運動場までウォーミングアップがてら走りながら向かった。
運動場γは、陽が沈むと特設ライトが点灯する仕様になっている。ただし、入り組んだ構造からライトの明るさは殆ど意味をなさず、地面に近い位置ほど暗闇に沈んでいる。日が出ている間はタイムアタックが多いが、こういうときこそ索敵能力向上のために使うべきシチュエーションというものだ。たった二キロの道程を、ロボットに見つからないよう移動する。相手がロボットの場合もあれば、心操と名前で交互に鬼ごっこの場合もある。今日は対ロボットで、心操とチームアップを組んで行っていた。今日最後のトレーニングになる。できれば会敵ゼロで気持ちよく終わりたい。
『…中央、今のとこロボなし』
「頭上先行するよ」
メイン索敵係を心操におき、名前が状況を確認しながら先行。名前が先に到着すれば、ミッション達成である。
配管の上を通る足場をすり足で歩く。鉄板は音がすぐに目立つのだ。足音の一つでも、音の感知センサーが優れているロボットに拾われるとすぐに居場所が見つかってしまう。じわじわと進むこと漸く半分。無線イヤホンから停止の声がかかる。
『右二時方面、ロボ二体』
「了解」
ロボットの背面ボタンを押せばプログラムダウンする。会敵したとみて戦闘に切り替えてボタンを押すか逃げるかは、今日は心操がその判断を下すポジションだ。どうやら、今日は戦闘に入るらしい。後方で捕縛布を握りしめて物影を動く彼を見た。ロボットの感知性能は通常の人間と同じ基準値にしてあるので、極端な無理ゲームというわけではない。
ロボットの後上方の配管に捕縛布を括りつけて、ターザンよろしく移動し、そのままぶら下がる。まだ気づかれていないようだ。
(…忍者かな…)
すとんと地面に音もなく着地する。ロボットが振り向くより先に、捕縛した後ボタンを押した。残り八機。
『いいよ』
彼のサインを受けて、階段を下りる。この配管レースの悪いところは途中で道が途絶えることだ。地面ならまだ飛び越えるなりやりようがあるが、如何せんビル三階相当の高さのところで突然足場が崩落などよくあることで、そうなると引き返すか意を決して飛び降りるかの二択が迫られるのだ。もしもここで飛び降りたならば、心操に苛立ちを含んで捕縛されることだろう。階段を見つけた段階で、降りなければ恐らくまた道は消える。
それから十分がたったあたりで、残り五機となった。ロボットに初勝利も目前に、一機に見つかって戦闘。戦闘音を聞きつけにきた二機に挟み撃ちをされるが心操の捕縛布で三機を捕獲。
合計三十分近くを費やして、ライトの眩しい舞台までたどり着いた。ノーアラート目標は達成できなかったが、今までで一番スムーズにゴールできた。
「前より発見するの早くなったね」
「うん、なんか見方みたいなコツ掴めてきたかも」
ロボットのプログラムを解除して、監視モードに切り替える。高性能なロボットが十機も自由に使用できるのだから、雄英はやはり規模がおかしい。
運動場から二人で並びながら寮に戻っている間、出久から帰宅を報せるメッセージが届いた。
――いつもと何も違わない文面だった。テレパシーなんてないけど、そう出久は言っていたけれど、名前が思うにこういうところも、ある種それに近いものがあるのだろう。
小走りに寮に戻るなり自室の冷蔵庫から残された二つが入った袋ごと握りしめ、A組の寮の前まで勢い余って全力で走った。
一年生寮の端にあるそこに僅かに肩を上下させながら見上げて携帯の画面を灯す。メッセージを入れて五分足らずで、玄関のドアが開いた。
「――はい」
「? なに、これ」
「家庭科の授業で作ったの。ヒーロー科ってあんまりないんでしょ、こういうの」
名前の掌ほどの小ぶりなシュークリームを、ぽてんと出久の差し出された両手に乗せる。
ありがとうと笑った顔に、唇を一文字に引いた。名前は傷だらけの両手を包んで、目を瞑る。
「…これ食べたら、明日も明後日もずっと、いずが元気で、きっと、オールマイトも、みんな、きっと、大丈夫」
信じて、願っているしかない。それは、名前が自分自身に言い聞かせるべき暗示。
インターンで何をしているのか分からない。それでも、それが仮令今の出久にとって逡巡する何かだったとしても、祈っているだけだ。名前にできる唯一のことは、あの紫陽花に願掛けをしたのと同じ、そんな子供じみたものだけだ。
ぎゅうと掴んだ手に、出久は数拍の間の後笑った。
「――ご利益盛りすぎじゃない?」
「いいの。食べたら絶対元気になるよ、ちゃんと美味しかったもん」
うん、ありがとう。
――夜じゃなかったら、きっともっとよく分かったのかもしれない。門前のライトだけに照らされるそばかすは逆光で見えない。ただ、徐々に垂れ下がっていく同じ緑がかった前髪の奥で、息を呑む声がした。
そうして、沈黙が重なる。
風に揺れる葉音。微かな虫の声。それらに混じる笑い声で、ようやく彼の堪えていた呼吸が規則正しく続いた。
ずびっと鼻をすすりながら、袖口で顔を拭う。
「…ごめん、ヒーローは、泣かない、のに」
泣き虫は治さないとな。オールマイトは出久の涙にそう言っていた。
「……入試の時、ヒーローはすぐ泣かないって私言ったけど、」
「……うん、?」
「泣いていいよ。いっぱい、泣いていい」
顎を伝い落ちる光の反射の一粒が、彼たらしめるものなのだろう。きっと、痛みに無頓着な彼らを繋ぎ止めてくれるはずのものだ。
泣いていいよ。
もう一度だけこぼした言葉に、うん、と言葉にもならない音が弾けた。
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