67



あれから数日が経って木曜の朝。授業が始まる少し前の時間だった。


(…?)


唐突に胸の奥に痛みを覚えた。心臓、いや、もっと奥深いところにある何かが軋む感覚。それは次第に全身に広がって、ぞわりと背筋が粟立った。
澪の席を囲んで四人で他愛もない話をしていた、なんてことのない日常の一瞬。
ぱちん。しょぼん玉が弾けるような音が、耳元で小さく起こる。次第にそれは数を増して、くらりと眩暈がした。


「名前?」


視界の至る所で明滅する細かな光が眩しい。隣にいた彼女が肩に手をかけた瞬間、身体の内側に引きずり込まれる感覚がした。


「名前、どうしたの?」
「…っ、なん、…!」
「名前ちゃん!」


瞬きのたびに、白昼夢のように記憶を見た。
神野でのオールマイトの姿。爆豪の背中。倉庫で嘆いた男の顔。雨に濡れた紫陽花。ベッドに沈むグランファ。出久の微笑み。青いアヤメの群れ。不格好な砂の城。鬱蒼とした森を進む。木陰に潜む。掴まれた手。赤い瞳。
騒然とするクラスの音の一切が消える。誰かが呼んでいる。


『――名前、俺』


ずぐずぐと脳が揺れる。
幼い口元が紡ぐ連なりが記憶の波間に揺れる。


「緑谷さん!」


机に突っ伏したまま頭を抱える名前の肩を、冷たい手が掴んだ。
頭が痛い。記憶が、手足を構成する細胞が、少しずつ箱に詰められていくような、そんな感覚。過去を流し続ける視界の隅で、心操の焦った顔が見えた。


「…ごめ、ん、心操、くん」


ひどい眩暈に机から顔も上げられずに横目見た視線に、彼は少しだけ瞼を押し上げて頷いた。


「…"大丈夫か"?」
「うん――」


すとん、と意識が落ちた。



   *     *     *



治崎廻率いる死穢八斎會を制圧し、その娘であり、個性因子消去の弾丸生成の犠牲となっていたエリを救出したのが木曜の朝のことだった。
暴動に伴い、出久のインターン先でオールマイトの元サイドキックであったサー・ナイトアイが、搬送先の病院で亡くなった。同じくインターン先にいた雄英高校ヒーロー科三年の通形ミリオが個性喪失により休学を申し出、他重軽傷者を出しながらも保護最優先の制圧任務は終わった。それも、渦中の治崎が死柄木によって襲撃を受け、押収していた弾丸を強奪されるという落ちまでついてだ。
翌日の金曜の昼頃、近くの大学病院で治療を受けていた麗日や切島、蛙吹とともに雄英に戻り、そこで調査や手続きを終えて漸くA組の寮へと帰って来られた。
やけに静かな玄関で靴を脱ぎ揃えて、リビングのドアを開ければ、A組の皆に大丈夫だったかよと口を揃えて声をかけられた。肉体的な疲労も、精神的な苦痛も、まるごと心配をしてくれた皆に、改めていつもの日常に帰って来れたような、そんな気がした。


「緑谷君、君がいない間に、クラスに心操君が来ていたんだが…何か聞いているか?」


八百万が淹れてくれたハーブティーを飲みながら、隣に座っていた飯田がふいにそんな話を持ち出した。木曜の一限の後だと付け足された情報に、知らないと首を横に振る。心操とは個人的なやり取りをしておらず、彼が訪ねに来る理由など思い浮かばない。


「用件があれば伝えると言ったんだが、いいと断られてしまってな。少し、焦っていたようには見えた」
「…心操君が…何だったんだろう」


心操がA組に来たと言うことは、名前に関することだろうか。それぐらいしか、彼との接点は今の所ない。
――この二日間、名前とは連絡を取っていない。現状を報告できるような、そういう余裕が正直なかった。ネットニュースでこの事件の話が掲載されていたとしても、これだけ大きな事件だ。一学生のヒーロー名が出ることもないだろう。このことは、出久が話をしない限りは知らぬままだ。


「……ちょっと、電話してくる」


カップの半分ほどになったハーブティーを一息に喉に流し込んで、外に飛び出した。
九月も下旬の夜風は、半袖だけでは肌寒い。上に羽織るものを持ってくればよかったと少しだけ後悔しながら、携帯の発信ボタンをタップして耳にあてがう。三コール目で、通話に切り替わった。


「あ、名前」
「――いず、帰ってきてたんだ」


携帯のスピーカーから漏れる声よりも、はっきりとした肉声が聞こえた。
振り返れば、C組の寮の方から名前がゆっくりと歩いてきている。携帯を耳に当てながら、おかえり、なんて手を振っていた。


「……こういうところ、双子っぽいなって思う」
「ほんと」


通話終了のボタンを押して携帯をポケットにしまい込む。
――静かな夜だ。彼女はまだジャージを着ていて、もしかしたら今日も訓練終わりなのかもしれない。僅かに笑みをかたどったまま黙り込んだ名前と、目が合わない。


「…ニュース、見たんだよね?」


名前は頷いた。依然と、彼女の視線は足元の芝生に向いていた。


「……いろいろあったんだ。詳細は、話せないけど…前々から、女の子を保護するために要請があって。僕のインターン先のヒーローが、先導していたから…昨日、僕も、そこに参加した」


ナイトアイの最期が頭をよぎる。
笑っていろ。通形も、だから、ずっと笑っていた。
――それでも、笑うことは難しい。飯田達には大丈夫だと言ってみせたが、まだ頭の中の整理はついていなくて、より良い何かがあったのではないかと思う思考は止まらない。
頬を抓ってから、自然と落ちていた顔を上げようとした先で、名前と目が合った。


「――おかえり」


名前は、笑っていた。眉尻を下げて、細めた瞳は揺らいではいたけれど、それでも、笑っていた。


「……うん」


ヒーローだって誰だって、死なないわけじゃないんだよ。
初めの頃、そんなふうに言っていた彼女の声を思い出した。分かってはいたけれど、こうして目の前でナイトアイを喪くして、改めて思う。こういう死が、オールマイトにも訪れるということだ。いつか、出久にも。――そうだとしても、出久は救けたい。より多くの誰かのために、この足が、この手が届くところにいるのならば。


「……名前、」


――喪失が苦しい。たった数回の付き合いで、それでも、ナイトアイを前に涙は涸れたと思っていたのに、ぼろぼろとふいに湧いてくる。
数粒の雫が頬を落ちる。腕で両眼をこすれば、彼女はただまっすぐに出久を見て、吐き出しそびれた言葉の先を待っていた。


「…っ元気と、ユーモアがないと!」


何それと力なく零れた声が二人の間に落ちる。
ニュースには、ナイトアイという名前のその人が殉職した一文だけが載っていた。彼の壮絶な最期も、それに携わった誰彼の思惑も行動も、たったその一文に尽きてしまう。
彼女はそのたった一文に、何を想像するだろうか。
名前の頭の中に過ったのかもしれない惨劇を否定する言葉も吐けず、それでもおかえりと笑った彼女に何が言えるだろう。
黙していれば、ただこの傷のない肢体しかここにはない。


「…ごめん、また、たくさん怪我した」
「…うん」
「でも、今は元気! いろいろ、ほんとに…いろいろあって、今はちゃんと言えないけど、絶対言うから、それまで待ってて」


エリのことも、彼女にどれだけ伝えていいのか分からない。それでも、あの日にあったことを伝えないという選択を取ることは、ヒーローを続けていく出久と名前は全くの無関係であると決めつけてしまうことになってしまう。それだけは、嫌だ。だめだ。守ると決めたのなら、言葉はいくらだって重ねていくべきだ。
名前は小さく何度も頷いて、少しだけ俯いた。


「A組に、心操くんがきたって聞いたけど、どうしたの?」
「……わたしがちょっと体調崩して、心配していずのとこ行ってくれたの」


彼女は腰の後ろで手を組んで、それから顔を上げた。


「え大丈夫? それなら、今日の特訓くらい休めばいいのに」
「へーき。なんともなかったんだ。私も元気」


名前は一瞬何かを吐き出そうとして、やめた。仄かに温かい指先で出久の右手を包み込むと、徐に持ち上げる。額に近づけて頭を垂れる様がまるで祈っているようで、電話口で聞いた紫陽花の話を思い出した。

: BACK INDEX :