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C組の寮に戻り、そのままお風呂に入って自室に戻った。共有スペースの方から聞こえてきた来月の文化祭の話に、もうそんな時期かなんて頭の隅で考えながら、ベッドに飛び込んで目を瞑る。
――出久は、前を向いている。泣くだけが悲しみを晴らす方法ではなく、泣かないからといって内側に閉じこもっているわけでもない。
昨日一日眠れなかったせいか、まだ十時にもなっていないというのに思考する間も無く意識を手放した。



ふっと目が覚めた。電気はつけっぱなしのままで、携帯の画面を確認すれば深夜の二時と表示されている。
喉が渇いて冷蔵庫を開けて、潤すことができるものが入っていないことに気づく。仕方なく、スリッパを履いて一階のリビングへと向かった。
当たり前のように誰も起きてはいない廊下は非常灯のみが点いていて薄暗く、静かなエレベーターの中で盛大なあくびを零した。一階についた音に半ば飛んでいた意識を覚ましてエレベーターから降りれば、うわ、と声が聞こえた。


「…しんそーくん」
「びっくりした…俯いて歩くなよ」

目をこすりながら歩いていたせいで髪が顔を隠していたようだ。キッチンに立っていた心操は胸元を掴んでいて、動揺した瞳を向けられた。
彼の手には水の入ったコップがあり、どうやら目的は同じだったようだ。大テーブルにもたれるように両手を突けば、目の前にコップが差し出された。


「…それで、昨日、というか一昨日というか、あれは何だったわけ?」


木曜の朝。唐突に襲われた眩暈に頭痛、そして追想する記憶の渦に意識を持っていかれそうになっていた。心操曰く、外見上異変はなかったが、瞳だけは光っていたように見えるとのことだった。どうしていいのかもどうすれば収まるのかも全く持って良く分からなかった現状で、頼れるのは心操の個性だけだったのだ。


「…ごめん、個性…」
「もういいって。洗脳解けた後何ともなくなってたし。ってことは個性のせいかもって、緑谷に聞きに行ったんだよね」


ひとまずリカバリーガールのいない保健室で午前中は休養をとり、その間心操がA組に行ってくれたそうなのだが出久は不在であった。夜に見たネットニュースで、死穢八斎會が制圧された記事が流れた。そこにナイトアイやファットガムといったプロヒーローたちの名前はあれど、出久の名前はなかったが、恐らくこの場にいたのだろうなとは見当がついた。ということは、何か個性に関する障害でもと思い昨日は一日考えもしたが、状況も分からないので連絡をすることは憚れたのだ。一夜経って帰ってきているのならとたまたまA組寮まで行ったら、そこにいた。
――そこにいて、何ともない姿を見て、まあいいかと思ってしまったのだ。


「……聞かなかった」
「? なんで?」
「なんか、大丈夫だなあって、思って」


今までであったのなら、きっと泣いていたのかもしれない。けれど、出久は涙をこぼして、乗り越えていくと決めたのだ。前を向こうとしている出久の背を押す言葉が涙ではないことくらい、良く分かる。
今回の事件で亡くなったナイトアイというヒーローは、元々オールマイトのサイドキックをしていたそうだ。ナイトアイのチームアップ要請で制圧をしかける動きになったというので、必然的に出久のインターン先はナイトアイの事務所ということになる。そして、彼は命を落とした。ナイトアイの個性は、未来の予測をしているようだとの考察もある。オールマイトが言っていたという彼の死の運命の話は、ナイトアイから聞いたものなのかもしれない。彼はそんな様々な死に向き合って、涙を拭いて笑った。


「…個性のこと、ずっと秘密にしてて、それが原因でいろいろあって、いずがヒーローを続けることも耐えれなくて、我慢して、できなくて、いずの未来が怖くなって、なんかそういうことばっかりだったなって、思った」


秘密にしようと思っていた分、言葉は足りなかった。話し合いなさいといろんな人に言われた。何を考えていて、思っていて、どういうふうになることが理想で。出久は必ず最後に「もう怪我をしない」と約束するけれど、そういうことではなかったのかもしれない。無傷でいてほしい。それは思う。けれど、そうではなくて、もっと、必要なことは別にあったのだろう。


「……大丈夫っていう言葉がなくても、伝わるんだなって、思ったんだ」


言葉にしなければいけないと思った。話し合うというのはそういうことなのだと思った。話し合ったとしても、現状が伴わない約束も理想も、たたの音の、文字列の羅列になるのであれば、不安要素を擦り合わせていくだけになる。
――寮に入る前にあったあの家族の空気感。あの色のない空気を飲み込む言葉を探していた。けれど、それは違う。


「――うん、私も頑張る」


もう大丈夫。オールマイトのあの言葉の裏には、幾重もの積み重なりがあるのだ。
大丈夫だよと言いかけて、名前にはまだ足りないのだと気づいた。


「…は、ごめん、なんか深夜テンションでめっちゃ語ってしまった」


飲みかけのコップをテーブルに置いてこちらを見ていた心操に、気恥ずかしさが勝って半歩後退る。目的であった水を一息に飲み干して、シンクにコップを滑り落した。


「…緑谷さんはさ、やっぱ俺なんかよりヒーローみたいだよ」


泡立てたスポンジを握りしめて、振り返る。彼は入学したばかりの頃のような顔でへらりとしていた。


「……個性なんかで…そんなこと、決まんないよ。そんなのきっとない。…心操君がヒーローにならなかったとしても努力の人なのは知ってるし、なんで努力したかって誰かのためになりたいからしたんだし、誰かのためになりたいって考えたのは心操君自身だし、じゃあそういうのってヒーローみたいだねって、そんなふうに簡単に一括りになんかできない」


手元に視線を移してコップを洗う。シンクをはねる水道の音は深夜にはよく響いていて、後ろで心操が少しだけ声にならない音を紛れさせた。水滴のついた手を払って、身体ごと向き直る。


「心操君の個性は、私のこと救けてくれた」


――死柄木は、個性のせいだと嗤った。こんなものがあるから、こんなものに物の善悪を決めるから、こういう世界になったのだと。
そうだったのかもしれない。彼の言葉を否定するには、名前も同じ思考をしてしまっている。ただ、


「…心操君は優しいよ、優しい人が、ヒーローになるんだよ。個性じゃない、心操君自身の話」


どうか、もう誰も傷つかない世界になりますように。
優しい彼らが、少しでも、いたみを抱えずにいられますように。
腹のあたりで組み合わせていた指の隙間から、乾ききらなかった水滴が床に落ちていった。

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