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時間を空けて治癒の続きを始めるからね、といったリカバリーガールの一声で、相澤も心操も寮へと戻ることになった。たった一人が寝るには些か広すぎる保健室で、彼女は湯気の立つ茶を啜りながら、横たわる名前を見下ろしていた。
「…あんたの話が職員会議で出たときに、私は、もうしなくてもいいんじゃないかって、言ったのよ」
小さな両手に収まる湯呑に目を落として、ゆったりと一口を飲み込む。そうしてデスクに湯呑を置くと、高い椅子からよいしょと飛び降りた。反動で座面がくるくると回転したのを手で押さえて、リカバリーガールはベッドに放っていた名前の左手を掴む。
「もう、無茶しなさんな。あんたはヒーローじゃないだろ」
返事ができないことを、彼女は知っている。
言葉を返すことができないことも、名前が訴えたい言葉を持っていることも、知っていながら、彼女は問いかけるわけではない言葉を吐いた。熱のせいだけではない涙がぽろぽろと落ちていくのは全く意思に反していて、堰を切ったように溢れるそれらを拭おうと両手を上げる。何十にも重なって見えた指先はたった一つしかなく、肌になすりつけるように目元を拭えば、赤くなるからやめなと柔らかい声が降ってきた。
――個性訓練をするようになって、始めの頃突発的に出ていた程の火力を制御できるようになった。そのうち制限がどんどんとなくなっていく炎は、どこまで大きくなるのだろうと怖くもあった。今日は何だか沢山吐き出せそうな気がした。自分の身体から作り出される炎に限界が有るだなんて思いも寄らず、結果として吹き上がった炎は今までで一番熱く、大きかった。これが、名前の個性の限界。個性訓練をしなければ、ここまで炎を制御することもできなければ、あれだけの炎に怯えることなく向き合えることはできなかっただろう。
やれて良かった。心操にとってはヒーローにもならない中途半端な奴だと思われていたかもしれないが、相澤のもとで二人で訓練を重ねたことには何処にも後悔はない。
ただ、もう少しだけ、まだ頑張りたい。あと少しだけ、やれることを残している。
「……ま゛、だ」
「――わかってるから、喋るんじゃないよ」
ぺしりと緩い力で額を叩かれて、もう寝ちまいなとため息を吐かれた。
* * *
翌日、熱は下がり爛れた喉だけが残ったものの、三、四日もすれば直に治るだろうとのことで帰宅指示が出された。授業は出れるのであれば出なさいと、学校の先生然とした台詞に思わず笑いながら保健室を後にした。
眩しい朝日に背を押されながら、少しだけ眠い目をこすりながら寮へと戻る。まだ七時も回っていない時間では寝ている人もいるくらいで、リビングには誰もいなかった。手早くお風呂に身支度を済ませて制服に着替えた頃にはもう八時も近く、マスクを耳にかけたところでドアがノックされた。
「名前ー」
あくびを噛み殺した柚希の声だ。適当な靴を足場にドアを開ければ、支度を終えた三人が並んでいる。
「保健室で寝てたらしいじゃん、今日行けるん?」
こくりと頷くなり、澪が透かさず「もしかして声でないの?」と小首を傾げた。
保健室で寝ているということは心操から聞いたのだろうか。状況を説明するにはまず個性の話からしなければならない。
――彼女たちに本当は無個性ではないのだと、何故話さないのかと聞かれたところで答えはない。話したところで、三人はそうだったのと笑って済ませてしまうのだろう。名前自身、個性は受け入れているはずだ。
やや答えに押し黙った名前に、教室行きながらにしよ、と紗代がぼやけた両目で笑った。
教室に行きながら、文化祭の話を聞いていた。
名前はお化け役だから。しかも心操君の後ろ。
柚希の言葉に、紗代と澪は顔をしかめた。言い出した彼女でさえ、なんとも言い難い表情をしている。タイルに落ちる枯葉を踏みながら、紗代の「付き合ってるって、ほんと?」だなんて朝からひどい空耳を聞いた。思わず何かしらの言葉をこぼしそうになって――実際、母音がひとつ弾けて噎せた――下駄箱で足を止めるなり、いつもの友人と歩く心操が後ろからやってきた。
「もう復活? まだ休んでればいいのに」
「噂をすれ、むぐ――」
「…何?」
声の一つでも出せていれば、この状況を回避するための言葉くらい吐けただろうに。不自然なほどに無理矢理に柚希の口元を両手で塞いでしまってから、気づいた。
――心操は、こういう言いかけた言葉を気にするタイプだ。しかもこの流れからして心操に対するものだと分かる。以前までの彼であれば、引っかかりながらも恐らく受け流していただろう。ただ、最近の彼は少しばかり強気だ。
僅かに眉根を寄せて「何の話?」と聞かれてしまえば、逃げ場もなくなった。
「もー、授業始まっちゃうから後でにしよーよ。ほんとなら、いろいろゆっくり話聞きたいし」
今ひとつ状況を理解していないような心操とその友人を見るに、この話は女子の中だけで広まっているのかもしれない。発端は――大凡、予想がついた。予想はついたけれど、その理由に見当の一つもつかなかった。――いや、一つはある。それも、酷い大きさのもの。
盛大にこぼしたため息のせいで喉がかすれて、咳き込んだことにさえ腹の奥でざわざわとした不満に変わっていく。
どういう状況、と後ろでつぶやかれた心操に、寄り合わせた眉に苦笑いさえ浮かばなかった。
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