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一夜明けて、喉の異物感は大分治まっていた。起きたばかりのベッドの上で、音を出す。酷いしわがれた声だったけれど、なんとか出せるようにはなった。飲み込んだ唾液は、いつもよりも苦かった。

五限目の物理基礎は広い講義室に対して教師の抑揚のない声に、前方の数人が睡魔と格闘していた。
罫線の引かれたノートに数式を書き込んでから、顔を上げる。右斜め前に座る心操の髪がペンを走らせる挙動に合わせて揺れている。いつも眠そうな目をしているけれど、そういえば授業中に寝ているのをまだ見たことがなかった。
――文化祭が終わればもうすぐそこに年の瀬が迫る。心操の予想では編入試験は年内に行うだろうという見立てだった。ヒーロー科というのはコスチュームや備品の登録など手続きも多く、そういうものは年を跨がないで済ませたいはずだと以前話していた。
だというのに、次回の訓練がいつ、という話はまだ出ていない。長くてもあと二か月ない期間だ。――名前も、そうだ。気張らないといけない。飲み込んだ喉の違和感に、ヒーロー目指さないのに、と彼のいつだかに言った声を思い出した。

例題の解説が丁度終わった頃にチャイムが鳴った。そのまま解散、と一気に騒々しくなった講義室を流れに逆らわずに退室して、一階分下りたところで忘れ物に気づいた。


「なに? 忘れ物?」


柚希が一緒に戻るよ、と振り返ったところで首を振った。笑い返して手を振れば、彼女はゆっくり歩いてるよと言いながら進んでいく。人も疎らな階段を再び駆け上がった。
廊下を左に曲がり、半分ほど閉められたドアの隙間から、数人の男女が残っているのが見える。横目見ながら通り過ぎ、自身の席に近い奥のドアから入ろうとした時だった。


「――個性ないのに、心操君と同じことして、こっち蔑ろにするのが。ヒーロー科行くわけでもないのに」
「まあ確かに、心操はヒーロー科行くために何かやってんの知ってるけど、無個性じゃなんの役にも立たねえよな」
「それは言い過ぎだろ」


けらけらと笑う声が響いた。ドアに差し掛けた手が、宙を浮く。


「そういえばさ、夏でも長袖着てたじゃん。あれ、首の火傷が肩まで広がってるかららしい」
「まじ、俺あの火傷痕結構えぐくて苦手、痛そーで無理」
「あれ六月だっけ? 夏休みもさ、あったよね。ヒーロー科の合宿襲撃されて誘拐されたやつ。あれ結局名前ちゃんもなんでしょ? ほんと不運すぎて可哀想」
「…可哀想だけど、あれなかったら今頃寮制じゃないし、夏とか普通にどっか行けたし」


こちらに背を向けて座っていた副委員長が最後にそう零した。
一理ある、なんて否定とも肯定ともとれないセリフに、彼女は少しだけ口ごもりながら更に言葉を重ねた。


「……家族が、身近な誰かがヒーローでとか、そういうので、何でも許されるみたいなのって、むかつく」


心操と付き合っているのかと最初に問いかけてきたのは彼女だ。恐らく、否定をしたのにもかかわらず"付き合っているらしい"という話に挿げ替えたのも彼女だろう。"特訓に付き合っている無個性"のカテゴライズをするためのものだと思っていた。けれど、そうではない。たった一度、行事の準備の優先度を引き下げたこと。それが認められるに足る理由は、"付き合っている人がヒーロー志望"だから。そうすれば、非難の先は心操を笠に着て好きなことをする無個性の名前、になるのだ。
――出久は、オールマイトに合わなかったら無個性のままだった。無個性と偽る名前の評価も無個性のままだ。個性がないことは、ただそれだけでこんなにも悪いことだっただろうか。


「――何しとんだ」
「あ、名前ちゃん、久しぶりー」


教科書を小脇に挟んだ爆豪を前に背後から上鳴、切島と瀬呂が階段から顔を出した。
がたりと講義室内で慌てて席を立つ音がした。爆豪の眉間にひどい皺が寄っていく。不自然に伸ばされていた名前の右手を睨んでから、空いている手で半開きのドアを開け放った。


「――名前ちゃん」


二人の男子が顔を見合わせて、それからゆっくり副委員長に視線を移した。
彼女は少しばかり表情を強張らせた後、短く息を吐いた。


「……だって、そうじゃない?」


無個性なのに。
その言葉に、爆豪が低い母音をこぼした。
――僅かに震えていた声が、どうしてかなんて知りようもない。けれど、彼女は確かにそう思っていて、そう思わせてしまうようなことを、名前もしたのだ。
胸の前に抱えた教科書を握りしめる。唇を噛み締めて、俯いた。
どれが最適解だろう。取り繕わなかった彼女に、正面から向かい合って、それでも言葉にはできなくて。マスクの中で、なんの言葉にもならない音が漏れた。


「――ハッ。たかがモブ雑魚の個性なんざ無個性と大して変わらねーわ」


爆豪の声が、奥まった物理講義室とその廊下にやけによく響いた。
次いで「下向いてんじゃねえ」と強く落ちた声。
――本当に、彼は優しくない。優しくはない正しさで、名前の背を叩く。
詰めた襟を掴んで、顔を上げた。視線の先に、彼女を捉える。


「……お゛も、って、ない、よ」


二日ぶりに言語を形成した喉に咽る。元の声など思い出せない程に掠れて嗄れていて、それでも、息を吸って言葉を吐く。


「そんな、ふうに、思って、ない」


なんだその声、隣で落ちた声に振り仰いで思わずつられて眉間に皺が寄る。
それ以上喋んない方が、と奥にいた切島が顔を歪めたのを、爆豪が見やった。それからこちらに振り向いて見下ろすような視線に、瞬きを一つした。


「…やんなきゃ、いけないことが、あるの」
「……。…ヒーローが身近にいれば、すぐ救けに来てくれていいね」


ちらりと彼女の視線が爆豪を見た。ちょっと、と隣にいた女子がその肩を掴むけれど、どちらももう、後には引けない。


「そういうのは、違う。みんな、そんなんじゃ、傷だらけ、だよ」


もしかしたら、彼女の過去のどこかにヒーローに救われたかった日々があったのかも知れない。だからこそ、周りにヒーローが多くいる名前をそんな眼差しで睨んでしまうのだろうか。けれど、それは言葉もなければわからない。
分からないけれど、名前は頼ることをやめたくて心操と特訓を始めた。自分が傷つくことも傷ついていく誰かの姿を見ることも受け入れられずに足掻いていたかった。
どちらが正しいかなんてきっとどこにもない。ヒーローは神様より実在的で眩しい。その背中は確かに、もう既に存在してしまっている。ただ、そんな彼らの背中は眩しいくせに、寂しそうに見えてしまうのだ。


「個性が、あるから、ヒーロー、だから、凄いとか、そうじゃない、とか、そんなの、ない」


言葉がうまく出てこない。だんだんと掠れて、最早言葉として吐き出せているかも怪しい喉はじくじくとした痛みを訴えている。もっと、言いたいことがある。こんな刺々しい言葉ではなくて、言いたいことはもっと別の形であって、それなのに、もう一言も話すこともできない程には痛い。それでも、彼女から目は逸らせなかった。
――もう、下は向かない。この火傷の痕も、爆豪が救けてくれた痕だ。誰かに気味悪がられても、今すぐ綺麗に消えてはくれない。消えてくれなくても、思い出すのはあの日の背中ばかりだ。


「――名前、遅くない…って体育祭のバクゴー!」
「っ――、げほっ」
「バクゴーに脅されてたの? 大丈夫?」
「するわけねえだろ! つかなんだお前馴れ馴れしいんだよモブ女!」


階段からやってきた彼女は咳き込んだ名前の背中をさすりながら、爆豪を睨みあげた。
二人が頭上で何やら言い争いじみた言葉の往復を始めたのを止める術もなく、呆ける副委員長の元に柚希の手からすり抜けながら携帯を取り出して向かう。


「な、なによ」
『準備、最初行けなくてごめんね。でも、みんなで文化祭楽しく作りたいって私も思ってるから、やれること全部頑張る』


携帯のメモ機能を使ってちまちまと打った文面を、彼女は睨むように見ていた。
瞳がゆらゆらと数度文面を往復したところで、彼女は唇を引き結んで手前のドアから出て行ってしまった。
下ろした携帯の画面に目を落とす。
言葉は、足りないだろうか。
スクリーンが自動ロックされる。暗くなった画面に、蛍光灯が反射していた。


「…個性があったら、なかったら、お前はどっか変わんのかよ」


左手をポケットに突っ込んだまま、爆豪は講義室の机に教科書を叩きつけるように置いた。がたりと椅子を引いて腰をかけた彼は、その一言の後、既にもう我関せずとばかりの態度で教科書をめくっていた。


「…名前ちゃん、てさ、心操くんと何やってるの?」


可哀想だよねと言った彼女は、この火傷痕をずっと憐れんだ目で見ていた。この痕が苦手だと言った彼は、名前の目とつむじの辺りに視線を彷徨わせている。無個性は役に立たないと、そう言った彼は名前が無個性だと知ったあの日から冷めた目を向けていた。それが、少しだけ変わっているのが分かる。爆豪の言葉でかは、定かではないけれど。


『仮想敵から逃げたり、追いかけたり?』


掲げた画面を見つめた三人は、少しばかり視線を落として考える。


「それじゃ、ヒーローと変わらなくね?」


誰かを救けたりは、出来ないけど。
それだけ打つと、柚希に腕を掴まれて教室から連れ出された。A組の声が階下から聞こえて、奥の階段から下っていく。


「頑張ってるって、名前だって胸張っていいんだよ。それが何だとしても、誰かがそれをどっちの方が大事かなんて決められない」


個性なんか関係ない。目指すものだって何でもいい。他でもない名前が、全部決めていいことなんだから。
廊下から差し込む陽光に照らされた彼女の髪が、まるであの入試当日の白い砂浜のように煌めいて見えた。

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