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授業を終えて寮に戻った後、部屋を訪ねてきたのは副委員長だった。のど飴が入ったパウチを手に、たっぷりの間を開けてごめんと言った彼女は、「…何よりも一生懸命になれる一番があることが、ちょっと、羨ましかった」と目を伏せた。
――無個性なのに。まるで、呪いの言葉だ。何より名前自身が、何かを戒める呪いだとそう思い込んでいた。本当はどこにもそんなことはないのに。ただ、言葉だけが呪いのように鎮座しているだけで。個性の有無が、個性の如何が、誰かを、何かを変えるわけではないはずだ。きっとそうだ。そういう希望論でもいい。その人を変えるものはいつだってそこに置いていった言葉の方だろう。きっと。死柄木のように、心操のように、誰かのように。
ありがとう、と笑った顔に彼女は苦々しそうで、それでも、少しだけ眉尻を下げて微かに笑んだ。その後、顔が赤いよと指摘されて体温計を脇に挟めば三十八度近い熱が出ていた。あとで食べやすいものと薬持ってくるねと、彼女は手を振って部屋を後にした。



   *     *     *



「あれ、緑谷は?」


夕食までの間に明日の組み立てに向けての話し合いをしようと集まったリビングに、彼女の姿がなかった。心操の前に座っていた委員長が小首を傾げながら女子の方を向けば、副委員長が「熱出て寝てるよ」と言った。彼女の目の前の席に座っていた女子が恐る恐る副委員長を見上げていて、その一瞬漂った空気に思わず隣に座っていた奴と顔を見合わせる。


「…今、ちゃんと治してもらわないと、準備楽しめないし」


瞳に影を落とす睫毛が震える。次いでぽつりと聞こえたごめん、という言葉に、女子の空気が和らいだような気がした。何があったのか、端に座っていた男子二人を除いて、殆どが疑問符を浮かべるような雰囲気だった。ただ、何かと和解できたような、良くない事態は避けられたのではないかと思う。そういえば、昨日の朝に名前の友人たちが含みのある言い方をしていたが、その件についてなのかもしれない。結局、心操が何の関係があったのか分からないままだけれど。



翌日、十一時までに各自C組の持ち場に集合となった。保健室に寄ってから来るという名前を除いて集まったクラスメイトと、注文していた木材の採寸をしていた。そろそろ切り出しにかかるかと鋸が担当に渡ったところで、名前が小走りにやってきた。


「遅れて、ごめん」


まだ随分と酷い声だったけれど、喉の痛みを我慢する素振りもないようで、大分調子はいいようだった。ひっどい声だな、と柚希が笑っているのを傍目で見る。彼女は、体操着の裾を握ったり離したりを繰り返しながら、「あの」とひと際大きな声を上げた。


「少し、時間を、いいですか」


各役割に散らばっていたC組がその声に手を止めて名前の方を向いた。彼女はちらと心操を見て、それから前を向く。
――ああ、恐らく、彼女はもう嘘を吐くことを止めるのだろうなと思った。


「私、ほんとは、個性、あるの。嘘吐いてて、ごめんなさい」


ざわついたクラスメイトの声。体操着の中程まで引き上げられたチャックが風に揺れる。
個性は、自分だけのものだ。それがどんなものであろうと、変わることはない。一生ずっと、傍にいる気難しい隣人。
ぱちんと一つ、あっけらかんとした笑い声が弾けた。


「まじか! それってどんな個性?」


太陽の柔らかな日差しを浴びて光る粒を残していく彼女の金髪。
――心操の中学時代も、彼女のようにすべてを笑い飛ばしてくれるような誰かがいたらと思う。


「…火を、吹く、個性」
「なにそれ超カッコイイじゃん! 例えばさ、火の玉みたいなの出来る?」
「あ、うん……目の届く、範囲、なら」
「じゃあ、ここ、そういう仕様で行こうよ!」


敵みたいだねと蔑まれることなく、悪用ではなく誰かのために。
誰も傷つけない個性だよ、と笑ってくれた彼女がいた。ヒーローたちが体育祭でかけてくれた言葉があった。
――彼女にも、そういう言葉が、積もればいい。
戸惑う名前を中心に、文化祭の準備が進んでいく。ぎこちない金槌が叩く音、笑い声、鋸の刃を引く音。
つうと垂れた汗を肩口で拭うと、背後からひょっこりと顔を出した名前が笑った。


「――ありがとう、心操くん」
「…俺、何かした?」
「特訓、してくれたお陰です」


そう喉を指さして、少しだけ苦く笑う。
彼女はそれだけ言うと、身を翻して戻っていった。
――特訓してくれて。
特訓をすると決めたのも、努力を重ねたのも彼女の意思だ。そこに心操は何も関わらない。ただ、放課後に吐き出した炎の一欠片に、彼女の嘘を溶かしていた何かがあるのだというのなら、お陰という言葉を飲み込んでもいいのかもしれない。
文化祭まで、あと一か月。心操の編入試験まで、恐らく二か月とない。
お互いに、目指すものに向かってできることをしていくだけだ。
一段と澄んでいた空に、名前の笑い声が弾けた。

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