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週が空けても、出久から体調不良を心配するようなメッセージは入ってこなかった。つまり、爆豪やあの場にいた切島たちは出久に対して名前のことの一切を口にしなかったということになる。あの状況を出久に一言でも伝えていれば電話が止むことはなかっただろう。昔から、名前が出久に隠したいことがあると爆豪は何も言わないでいてくれていた。ただただ面倒なだけかもしれないけれど――いや、恐らくそれ一択だ。
promise、と書かれた穴の開いた英語文を埋めながら、少しだけ、小さい頃を思い出していた。
その週の土曜にもなれば、喉も完全に治りきっていた。熱をぶり返すこともせずに乗り切った平日は特訓がなかったために一度も個性を使わなかったが、心操は夕食後の一時間だけ運動場γで相澤と何やら新しいアイテムを手に続けていたようだ。なんでもサポート科に依頼していた彼の個性を活かすアイテムが届いたようで、しかしそれが調整の難しい代物なのだそうだ。もう少し出来るようになったら見せるよと悔しさを滲ませていたので、分かったと笑って頷いた。名前の特訓の方はしばらく個性を使わずに続けていくとのことで、ひとまず来週の水曜日に集合することとなった。
文化祭も再来週に迫った土曜ともなれば皆熱も入っていて、C組の心霊迷宮も骨組みを組み終えて外装と内装の制作に取り掛かっていた。特訓のおかげか高所に上ることに全く抵抗がなくなったため、名前は外装の壁面の取り付け要員として動いていた。高い脚立に足をかけながら、ホルダーにしまい込んだドリルのトリガーに指をかける。落下防止のため、念には念を入れて外から梁に向かって打っていく。板を穿つ小気味良い音に紛れて、誰かの声が弾けた。
「――名前!」
不意に名前を呼ばれ、足元に視線を落とした。脚立を支える紗代と、その先に制服を着た出久の姿を見つける。
「ちょっと待ってて!」
最後までボルトを打ち切ってから、ホルダーに丁重に仕舞い込み一段一段下りていく。ぎしぎしと軋む音に怖さを感じながらも地面に降り立てば、出久が「よくのぼれたね」と上を見上げて笑った。
「γの配管レースしてたらね、慣れちゃった。というか、どうしたの?」
両手を広げた紗代にホルダーごと渡してから向き直る。
彼は紹介したくて、と眉尻を下げてから、後ろにいたヒーロー科の先輩とその足元にしがみつく小さな女の子に見た。
「エリちゃんと通形ミリオ先輩。インターン先で、お世話になって」
「初めまして、緑谷名前です…?」
「お顔が、そっくり…」
「うんうん、笑った顔なんてそっくりだね!」
差し出された通形の手を握り返せば、腕を引き千切られんばかりに振られた。
――インターン先の、先輩。件の死穢八斎會との事件を思い出した。出久はその事件の詳細を語ることはできなかったけれど、小さな女の子を守るために戦ったのだと言っていた。彼女――エリが、その時の子なのだろうなとなんとなく察しが付いた。
通形の手を解いてから、ゆっくりとしゃがみこむ。怯えているというよりは、人見知りをしている感覚に近いようだ。
額から迫り出した角のようなものが個性に関係する何かなのかもしれない。太陽に照らされて波打つ白い髪が、打ち寄せる白波のようで綺麗だった。
「…エリちゃん、名前です。よろしくね」
「名前、さん」
エリは何度も出久と名前の顔に視線を交錯させながら、そっくり、とまた呟いた。
「名前ちゃん」
二階のむき出しの窓枠から、副委員長が顔を出している。休憩どうぞ、と手を振った彼女の隣で、紗代が行ってらっしゃいと笑っていた。
「――これから、どこに?」
「実は、文化祭にエリちゃんが来られることになったから、前準備に見学に回ってるんだ。今大方回ったとこ」
「そっか、なら、食堂は? 最後に一息つくのにちょうどいいんじゃない?」
「ああ、確かに!」
掌を打った出久が通形に食堂への進路変更を提案している間に、クラスメイトにすぐ戻ると声をかけた。名前も一緒にと通形とエリを先頭に後ろを二人で並んで歩く。文化祭の熱量がそこらかしこに漂っていて、周囲をきょろきょろと忙しなく首を振るエリは不思議そうに目を瞬かせていた。
食堂までの道すがらにした話は他愛もなく、最初こそ名前とは距離があったけれど出久と似た顔だからか少しずつ語彙が増えていっていた。言葉の応酬が滑らかになってきた頃、食堂の大扉の前に着いた。キッチンカウンターにいたランチラッシュは、エリの姿を一目見て、それから好きな食べ物がリンゴだと分かると秘密だよと笑って奥からちんまりと皿に乗ったアップルパイとジュースを差し出す。ありがとうと言った彼女の口角は下がったままだった。
エリがフォークでつつきながら食べている間に、隣にいた根津校長とミッドナイトに挨拶だけして二人で水を取りに行く。
「…エリちゃん、あんまり外に出たことがなくて。あの子の個性は対象を巻き戻す個性みたいで、その個性を使って…色々あって、結果、先輩は個性を失くした。でも、僕はあの子のおかげで今ここにいられる」
水を注ぎながらぽつりとこぼした出久の言葉に、だからこそ救けにいくためにあの事件が起きたのだろうと納得した。
――出久のインターン先の上司であったナイトアイが亡くなった事件。何度も何度も、涙をこぼしては前を向くことを選んだ彼との夜を思い出す。どうか、誰も怪我をしませんようにとシュークリームにあまりにも多くを願い過ぎてしまった結果が、ナイトアイの死であったというのなら。それでも、どうか、どうかと祈っていることしかできない。
年端の行かない幼子のわりに硬すぎる口角が、救け出した出久の胸を締め付けているのだろう。
――どうして、私を救けたの。私がいなかったら、こんなに痛い思いなんてしないですんだのに。
あの頃の自分を思い出す。グランファに殴りつけた言葉のひとつひとつを飲み下す。
"炭谷"の笑い顔を思い出して、苦いなあとごちてしまえる程に彼の赦しを受け入れている自分がいる。
食べ終えてストローを銜える彼女のいるテーブルに戻る。唇の端にパイのかけらをつけているエリの足元に屈んだ。親指でそれを払ってから、彼女の小さな両手を包み込む。
「いずを、守ってくれてありがとう。エリちゃん」
事件のあった日の午前。授業の始まる前にあったあの騒ぎの正体はこれだったのだ。出久と名前が同じ胎から生まれたおかげで、出久が巻き戻されていく時間の中に名前がいたのだ。だから、追想していく過去を見ていたのだろう。そして、出久の身体は限界を超えても巻き戻された。今ここにいられる、という言葉を選ぶほどには、その瞬間は余程苛烈を極めていたのだ。
ありがとうと、あの時もこういえば良かったのだ。誰かの"犠牲"でもなく、"個性"にでもなく、ただ、守ってくれた優しさを、素直に受け入れれば良かったのだ。
少しだけ鼻をすすって目を伏せた名前に、どうして泣いてるのとエリの戸惑う声が落ちる。
「…エリちゃんが、ここにいてくれてることが、嬉しい」
出久が、通形が、ナイトアイが、救けたいとただ一つを願った結果がここにある。彼らの願いの一つが報われて、笑ってほしいという思いを叶えるために日々を積み重ねることができる。
――今になって思う。
『君に笑っていてほしかったんだ。笑って、家に帰ってほしかっただけなんだ。学校であったこと、出久君と喧嘩したこと、友達とのこと、いろいろな話をしに来てくれることが、嬉しかった。君の帰るべき場所に帰り、そうして日々を過ごしている君の話は、私にとって何よりも救いだった』
彼が言いたかったのは、こういうことだったのだ。
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