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『いずには言わないで』
迷子になった名前の膝から薄っすらと滲む血に涙の一つも零さないで、彼女は爆豪を睨むようにして見上げている。絶対に内緒だと勝手に約束をしていく名前のそういうところは、何もその時限りの話ではない。今までも、何度かある。どうせ家に帰れば見つかるはずなのに彼女があんまりに強い瞳でそう言うので、すっかり爆豪はそういう目をした名前には何も言えなくなっていた。わざわざ出久に言ってやる必要もないと落とし込んでいた。
――物理講義室で見せた彼女の揺らがない双眸はそういう目に似ていて、切島が出久に言いかけようとしたところを遮った。切島は不可解そうな目をしながらも、お前がいうんならとその件については押し黙ることにした。言わないでねとは言われていない。けれど恐らく、彼女のあの酷い声もクラスメイトの発言も、出久に伝わることを良しとは思ってはいないだろう。それくらいは分かる。そして、今回も"わざわざ会話を重ねてまで伝える義理"はないのだ。
文化祭が来週に迫った日曜はもう随分と形ができていて、校舎外の雰囲気は騒然としていた。所狭しと並ぶ屋台や生徒が作ったとは思えないアスレチックの数々に、バンド練習の休憩がてら歩き回っていた上鳴と同じく息抜きに来ていた切島と瀬呂が後ろを歩きながら感嘆の声を漏らしていた。
「いやーほんとすっげえな」
「あ、おい爆豪、あのアスレチック当日行こうぜ! 景品あるってよ!」
どこもかしこも煩くて息抜きにもならないが、こういう空気感は嫌いではなかった。
屋台を抜けて開けた広場の先に黒々とした建物が現れる。心霊迷宮と題された看板が立っていて、そういえば名前のクラスはお化け屋敷だなんだと出久が騒いでいたのを思い出した。
右往左往する同じジャージの群れ。壁面の隅に、座り込んでいた背中を見つけた。どうやら入り口付近に赤い手形を量産しているようで、両手どころか頬まで赤いペンキにまみれていた。
クラスメイトと笑いながら壁に手を張り付けている。その会話を交わす先にはあの日物理講義室にいた女子生徒の姿もあったが、それでも笑っていた。どうやら蟠りは解けたようだった。
――足元にある赤いバケツ。話す相手は上階にいて、立ち上がった彼女は足元の一切を見ていない。
背後でかけられた声に適当に言葉を返してから、ずかずかと大股で歩み寄った。
思った通りに、彼女はバケツに足を引っかけた。中身のペンキを気にしてかバケツとは反対方向にうまく避けようとはしたようだが、如何せんその足回りには刷毛だのなんだのと物が多すぎて足の逃げ場がない。
がしりと倒れる前にその腕を掴んだ。よろめいた名前の身体は傾いたまま静止する。何度も瞬かせた目と唇が、音もなく勝己君と驚きを表現していた。
「相変わらず鈍臭ェな」
真っすぐに立たせてから腕を離す。どうやらジャージも黒だの赤だのとペンキが纏わりついていて、どういう塗り方をしていればここまで汚れるものかと思わず目を細めた。
「え…あ、え、あり、がとう」
真っ赤な両手を掲げたまま、名前は爆豪を見上げる。目についたから腕を引いてしまっただけで、特段彼女と会話が続いた記憶は今まで然してない。そのまま引き返そうとした爆豪を、待ってと呼び止められた声に少し驚いた。
「あ、えっと…手、出して」
「はァ?」
「手」
逸らされない碧に、唇を引き結ぶ。訝しげに眉根を寄せながらも、右手を差し出すと彼女は両手で挟み込むように握った。
「ッな、にすんだよてめ…! 突然塗りたくってんじゃねーぞオイ!」
「っふ、」
べったりと名前と同じ赤が、右手にまとわりつく。ペンキの所為でかひどく冷たい手が、するりと離れていくと、彼女は息を零すように笑った。
――笑っている。名前が、爆豪の前で。
「自分の手形、取っておくのもいいかなって」
ほら、と黒い壁を指さして、眦を細めて彼を見上げていた。――笑った顔が、出久に似ているとよく言われているのを知っている。出久は爆豪がどれだけ悪態を吐こうと笑っていた。対して、名前はどんどん爆豪の前で笑わなくなった。だから、似ていると言われた顔が分からなかった。
――どこも全然、似ていないのだと知った。
「……捨てやがったらぶっ飛ばす」
「解体したら捨てちゃうよ」
黒い壁に、手をついた。周りに散らばる名前の手よりも大きな手が不格好で、それにまた彼女は笑った。もう一回と刷毛をこちらに向けてきたので、もうやるかと乾き始めた赤ごとを握りしめる。
「――ありがと、勝己君」
息を吸いこんでこぼした言葉に、また口を噤んだ。
「……嘘吐いて、ごめんなさい」
個性があったら、なかったら。
無個性の役立たずが、と散々馬鹿にしてきた。吐き出した言葉はなくならない。そうだというのに、個性の有無でお前は変わるのかと言った。自分でも馬鹿げていると分かっているけれど、確かに、彼女が彼女であったことに変わりはなかったのだと気づいた。
「…どーでもいいわ」
個性があることがそんなに偉いのかと彼女はいつも怒っていた。
本当に無個性だった出久を前に、そんな個性の差異に、怒っていたのは名前自身にもだったのかもしれない。今更思ったところで下らない。
――下らないほど、二人とも個性の扱いを辿る変遷まで足並みを揃えてきている。
「あの喉も、最大限個性ぶっ放しでもしたんだろ。クソみてえに同じことしてやがんなお前ら」
「…言われてみれば、ほんとだ」
納得した顔に四歳児かよと吐き捨てる。
――彼女の隠さなくなった首元に居座る痕は、赤に紛れてはくれない。それでももう、下は向いていない。
個性なんざ使わなくても、そう言いかけた言葉を舌先で転がせる前に飲み込んだ。それから上鳴たちのもとに引き返す。A組の見に行くね、と背後で弾けた声に、赤い手を振った。
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