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グランファは、ずっと私の最高のヒーローです。
薄っすらと夕日の差した赤くなった頬で、真っすぐに炭谷を見つめる碧の双眸。初めて、彼女の口から"ヒーロー"を肯定的に飲み下した言葉を聞いた。
――炭谷硬史。ヒーロー名グランファ。六年前に、名前を敵犯罪から救い出した男で、それを契機に引退をしたヒーロー。名前のトラウマの張本人であり、そして、――唯一無二のヒーロー。


「名前にとってのヒーローになれなかったことが後悔だって、授業で言ってたよな」


隣を歩く切島が背後の名前を見やりながら思い出すようにそう言った。幸いにして彼女には聞こえていなかったようで、切島を横目見る。


「あ…悪ィ」


あの場に名前がいなかったからこそ、あの後悔を吐露したのだ。彼女にそんな悔恨の一端でも聞かせてみれば、すぐにでもまた泣きそうな顔をするに違いない。
口に手を当てた彼はハッとした顔をして、それから爆豪の背を叩いた。


「ッテェ、なにすんだこのクソ髪!」
「いやこの人混みの中、会えて良かったよな!」


彼は爆豪の悪態をまるきり無視して後ろを振り向きながら笑うと、名前が弾かれたように顔を上げた。


「――うん、ありがとう」
「…あの炭谷さんって人は、前に言ってたヒーロー?」


個性は隣人だっていう。
心操は項に手をやりながらそう聞いていて、彼女は嬉しそうに「それは炭谷さんのサイドキックの人たちだよ」とはにかんだ。
――C組の心操。久し振りにその顔を見たが、よくよく思い出せば体育祭で出久と対決した奴だった。体育祭の前にもA組にわざわざ物見に来ては下手糞な挑発を吐いていった。それが、名前と個性訓練をしているらしい。発端は恐らくあの六月の事件なのだろう。それから今もまだ、続けている。だから、この間出久にシュークリームを渡されたあの日も体操着を着ていたのだ。心操と、訓練をするために。


「…勝己君、すごい顔してるよ」
「――あァ? 血糊まみれのテメェに言われたかねーわ」
「えっ嘘」


ぺたぺたと顔面を両手で探る彼女の前髪が、血糊で固まっている。ポケットに突っ込んで手を抜こうとして、前を向き直した。


「…顔じゃなくて、髪じゃない? 別に変じゃないけど、束になってる」
「あ、前髪は、気付かなかった…」


前髪を指さした心操に急いで指で梳く彼女の髪の血糊は取れそうにもない。
――夏でもないのに、汗腺が疼く。


「お、今上鳴がやってんだな」


人盛りの向こう側にある反り立つ壁を駆け上る上鳴を見つけて切島が声を上げた。


「あ、澪!」


それじゃあと手を振って別れた彼女はC組の友人の許に駆けていく。心操も、別の集団の元へ離れていった。どうやら二人は行き先が偶然同じであっただけのようだった。


「爆豪、眉間がすげえ皺」
「うるせェ」


――ヒーローにもならないくせして、個性訓練を続けて何になる。しかもあんな奴とだ。戦闘センス皆無の出久にも勝てないようなモブ雑魚。
インナーの袖を捲し上げる。次の挑戦者は、と囃し立てる進行係の隣に並んだ。
このクソみたいな気分を払拭する景気の良い爆破音を上げてから、坂を駆け上った。



   *     *     *



A組の出し物が終わった後はエリや通形とともにプログラムを回っていった。エリの監督者として相澤が少し距離を取って後ろをついてきていて、その状況が少しだけ面白かった。


『――それで、わああって言っちゃった』


通形の隣で身振り手振りに状況を伝えようとする彼女の頬は紅潮していて、うまく言葉にはできないながらも楽しそうにしていた。空に浮かぶ風船もクレープもアスレチックも、通形と出久の後ろを離れないように歩きながら準備のときとは違うそれらすべてに始終笑っていた。

昼過ぎのミスコンを見終えた後、寮のキッチンで買い物袋の中身を広げていた。小ぶりのリンゴが三つ。砂糖に食紅、割り箸を並べてから携帯にレシピを表示させる。
最後まで、楽しんでほしい。少しの心残りもなく、一日を終わりにしたい。彼女の頭の中が楽しいものや美味しいものなんていう幸せなもので犇めいてほしい。――名前も、そうだ。
手鍋に砂糖と水、食紅を加えてどろどろに煮詰めていく。
オールマイトのようになりたかった。ずっと、彼を目指していた。どんな敵にだって背を向けず、困っている、泣いている人を全員救けてしまえるヒーロー。彼がどれほどの傷を負おうと、いつだって笑って常に一番であり続けるヒーロー。
傷を勲章だとは思わない。名前に散々こっぴどく言われたという理由が大半を占めているけれど――本当は、多少の傷くらいはヒーローであるうえで仕様がないものだと思っていた。誰かが負うかもしれなかった傷を出久が負ったところで、彼が生きているのであれば傷はいつか癒えるものであるのだから。


『傷の多さが、君たちをヒーローたらしめたるものではない』


炭谷が授業で言っていた言葉は、理解はできたけれど腑に落ちなかった。トップヒーローはどんな現場にだって赴く。それはつまり、制圧能力や救出能力あらゆるものに長けていなければならない凄惨な現場が多くなるということで、傷はそれらに比例するものだと思考していた自分を否定はしない。名前はそういうところを嫌がるのだろうけれど、現実問題としてそうだった。
――けれど、本当に違うこともあるのかもしれない。
エリのあの笑い顔を見た。傷だらけになって、ナイトアイは亡くなって、そうして彼女を治崎のもとから救い出したところで彼女を救けたことにはなりえなかった。ああいう場所から救い出せることはヒーローとしての大前提で、それを為せることがつまりヒーローたらしめる力なのだと思っていた。けれど、そんな力などなくたって、エリは笑った。あの瞬間確かに、治崎や個性という柵から抜け出していた。
傷などなくたって、ヒーローになれる。
炭谷が言っていたのは、こういうことだったのだ。

校門でエリと通形、送迎のための相澤を見送り、片付けのために急ぎ足で校舎の方へと戻ると本校舎の入り口で見覚えのある姿を見かけた。


「あ、炭谷さん!」


車椅子に乗る彼の後ろには男性と女性のヒーローの姿があった。頭の中の引き出しを掻きだしても、二人の姿にピンとくる事件は思い浮かばなかったが、恐らくはグランファ事務所のサイドキックなのだろう。
炭谷はにこやかに微笑んで手を挙げた。
傍にまで駆け寄ると、ジャケットの羽織ったスーツ姿のせいか、以前よりも小さく見えた。顔色は悪くないようで、痩けた頬を動かして出久君と笑った。


「A組の出し物、見たよ。君たちは素敵なヒーローだね」


皆が笑っていたよ。
炭谷は目を細めて自分のことのように嬉しそうにそう言った。
出久は個性を譲渡されてヒーローを目指すことができた。仮免ヒーローになることもできた。そうなれなかった未来も何処かであったのかもしれない。ジェントルのように、諦めきれずに足掻いて、それでもヒーローのような何かになりたくてなれなくなった道。名前にとっては幸いな道なのかもしれない。けれど、もう違う。
――爆豪と出久の目指すヒーロー像に差異があるように、彼やオールマイトや、その他大勢のヒーローとは目指すものが異なっている。それは必ずしも統一しなければならない理想ではなく、誰も彼も自分の抱く理想像に向かってひた走っていいものだ。ただ、その一端で、こうして誰かの思い描く理想を拾い集めることができたなら。それはきっと、今までの自分とは異なっていた、不特定の誰かの求めるヒーローにもなれるはずだ。


「炭谷さん――僕、笑って救けられるヒーローになりたいんです」


ぎゅうと背中に回したビニール袋を握りしめる。


「だから、出来るだけ、無傷でありたいと思います」


ヒーローの傷に涙ばかりを零す名前にとっての"理想のヒーロー"。それがどれだけ現実的でなかったとしても、そうすることで誰かの幸せ足りえるのなら。炭谷はきっと、そういう矛盾を抱えていたのだろう。
彼は大きく目を瞬かせてから、頭を垂れた。


「…君たちは、本当に……」
「…グランファ、良かったですねえ」


右隣りに控えていた彼は、小首を傾げてへたりと屈託のない笑い顔を浮かべた。


「――デク。君もどうか、私の夢を繋いでくれ」


面を上げた彼の目尻には涙と呼ぶべきものが浮かんでいる。
差し出された手の小傷も、やせ細った腕も。そのスーツの下に着こんだ傷も。彼はそれら全てを抱えてもなお、無傷のヒーローを語る。
出久はその手を握り返して、はいと笑った。
――彼の後悔を、晴らしてやってはくれないか。オールマイトの言葉を思い出す。
炭谷も出久も、名前も。あの日に押し込めてきた理想も、信念も、未来も、後悔も、悲壮も、諦念も。
ようやく、立ち上がって背負い込んで飲み込んで、前に進めていけるのだろう。
そうしても、いいのだろう。

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