81
空砲の音が響く。プレゼントマイクの名残惜しそうな声が、文化祭の終わりを告げていた。
撤収作業はすべて翌日となり、今日はこのまま各自ホームルームの後解散となっていた。
――雄英に入学してからのことが、頭をよぎる。あのままずっと捩れていたらと思うと、こうして通り過ぎていく笑い声も受け入れることなどできずにいたのかもしれない。こんなふうに、一回りも大きい赤の手形が残ることなどなかったのかもしれない。
ベニヤ板を黒く塗装した壁。ざらりとした感触の赤いペンキをそっと撫でる。中学生の途中までは名前の方が背も大きかったのに。
徐々に寮へと戻っていく生徒に紛れて、黄色の衣装が視界の端で揺れた。ふっと顔を上げると、汗ばんだ額を拭いながら笑う出久の姿があった。
「よかった、まだここにいて」
「いず、どうしたの?」
「さっき、エリちゃんと通形先輩を見送ってきたんだ。それで――」
はい、と背中に隠されていたものを差し出される。溶かし込んだ砂糖でコーティングされた赤い小ぶりな林檎。その上にかぶさる袋の口を留めるモールの不格好さに、思わず彼の顔とそれを交互に見やってしまった。
「――名前、楽しかった?」
――君は、ヒーローになれる。
住宅街の真ん中で、こんな具合に差し込まれている夕日を背にオールマイトが放った言葉。そこから始まった出久のヒーローとしての道を、見届けると約束した言葉。ボロボロになっていく出久の右腕。揺るがない犠牲心。向き合えなかった個性。過去。傷。
「楽しかった…すごく、楽しかった。私、雄英に来れて、本当に、よかった」
出久の歪な指先を彩る赤。
いつか、彼のことをデクと、そう呼ぶ日がくるのかもしれない。爆豪が呼んでいた頃とは違うもので、それでも。
きっと、もうきっと、"大丈夫"だ。
* * *
十一月も半ばになると夕暮れも束の間、すぐに辺りは薄暗さを増していた。寮に戻るなり文化祭の興奮冷めやらない上鳴たちが耳元でひっきりなしに騒いでいて、落ち着きのない空気から逃げるためと単純に日課の走り込みのために爆豪は緑化地区を走っていた。ぽつりぽつりと立つ街灯をいくつか超えたあたりで、十字路が見えてくる。ふと通り掛けに左を向けば、二つ目の街灯の下にあるベンチに見慣れた姿があった。
緑化地区は比較的雄英の中でも鬱蒼としている。そういう場所が得意ではないくせに何故こんなところに一人でいるのか皆目見当も――つかないわけでは、ない。走っていた足は前に踏み出すのを止めていて、自然とそちらに向かっていた。近づいてみると、彼女はベンチの上で膝を折りたたんで、ぐずぐずと鼻を鳴らしながら何かにかぶりついていた。
「……何しとんだ、お前」
びくりと肩を大仰に震わせた彼女――名前は、大粒の涙を頬に落としながらこちらを振り仰ぐ。勝己君、と頬に何かを詰め込んだまま呟かれた声のあと、今更にジャージの袖口で目元を拭った。
りんご飴だ。右手に持っていたのは半分に齧られたりんご飴で、心なしか唇もほんのり赤く染まっている。
彼女は上だけジャージを羽織っていて、制服のスカートから伸びる素足は見るからに寒そうだった。
「…トレーニング中?」
「ああ。つか、大人しく寮で食ってろや」
「この顔で戻れないって気づいたの」
「いつもと変わんねえ不細工な面だろーが」
口が悪い、と顔を歪めた名前は、また鼻をすする。
「――炭谷さん、授業でそんなふうに言ってたんだね」
「チッ……聞こえてたんか」
切島も上鳴も、そういうところでよく口が滑るような性格だ。
名前の食べているせいだけではないまごつく口に、舌打ちを零してどかりと隣に腰かけた。このまま置いて走ることだってできたはずだというのに、こんな薄暗闇に一人にさせることも憚れた。知らない所で泣かれるよりは、目の前で言葉を零しながら泣かれる方がずっといい。
「――ありがと。案内というか、会わせて、くれて?」
名前は唇と同じように赤くなった目尻を緩ませて笑った。
「ちゃんと言えてよかった」と、目の際から溢れて落ちていく涙腺の脆さは昔から変わらない。泣かないって言ったのに。ハッとして再び濡れそぼっているのだろう袖口で拭って、食べかけていたりんご飴を銜えた。まだ目尻には涙が溜まっているというのに、彼女は薄っすらと浮かぶ月を見上げながら咀嚼を繰り返す。
「…泣くか食うかどっちかにしろ」
「うん」
そう言いながらも溢れるそれらが引っ込む気配はなかった。
ベンチの背もたれに深くかけていた背を起き上がらせて、膝の上に肘を乗せて頬杖を突いた。額を流れていた汗も既に乾いて、時折そよぐ風に背筋が震える。なんでこんな寒い夜に限ってこいつは、と悪態も吐きたくなる。そんな空気が伝わったのか、彼女は戻らないのかと細い声で聞いてきた。
「あ? 戻るに決まってんだろ」
「……そう、」
腑に落ちない声に彼女を一瞥すると、最後の一口を前に止まっていた。
タイル張りのどこかに視線を落とす名前の前髪は、未だに固まったままだった。――殆ど、無意識には近かったのだと思う。あの瞬間ポケットから抜こうとしていた手が何をしようとしたのかなど分からない。ただ、腹の奥がざわついたのは確かだ。
左手を伸ばした。ぼうとどこかを眺めていた名前の前髪をさらう。お湯にでも流さないと最早取れそうにもない。梳けもしない髪から手を離すと、瞼を持ち上げたまま爆豪を凝視する名前と目が合った。その両目から最後の一粒が落ちると漸く涙は消えていて、ベンチから立ち上がりながら指先をポケットに戻した。
「寒ィ。帰んぞ」
「え、あ、待って、」
手に持っていたりんご飴の一口を口に放り込んで、彼女も同じように立ち上がる。少し後ろを歩く名前がちらちらとこぼす言葉に返事をしながら、寮までの道を辿る。
――来月だ。今の爆豪は仮免ヒーローですらない。まだ、足りない。彼女の膝の小傷が増えていくことを辞めさせるにしても、守ると決めたとしても、それらに中身を伴わせるべきだ。
まだ、足りない。
← :
BACK INDEX :
→