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ごうごうと燃え盛る炎に薄氷が降りると、轟が不意に顔を上げた。
「……個性は身体機能の一部」
「? それが、どうかしたか?」
「いや、俺の炎も俺の手の届かないところじゃ燃え続けることはできねぇ。小大とかみてぇに、それそのものの状態が変化するやつは別として、出した炎も近くにいないと燃え続けるのは無理なんじゃねぇか?」
だから、どっか近くか、上からか。
轟がそう言うないなや、飯田がぐぐっと伸びをしてから親指を立てた。
「分かった。俺が囮も合わせて上まで登って見てみよう。もしも向こうが俺を目視したら、動くはずだ。そうしたら、耳郎さんが音を拾えるだろ」
「オッケー。任せて」
耳郎のジャックが配管に伸びる。飯田が地面を蹴り上げると、空気を輩出するエンジンの音が鼓膜を突く。器用に左右から飛び出る障害物を避けながら、最後の一蹴りで上空まで駆け上った飯田の声が響いた。
「――流石だ、轟君!」
* * *
左手から飯田が文字通り凄まじいスピードで飛び出してきた。けれど、足場のない上空での方向転換からの最速を飯田は出せない。
右足が砂利を踏みつぶす。名前も飯田もお互いを認識したと同時に、既に建物全体には轟の氷結が迫っていた。
立ち上がり右足を踏み出した。轟の氷を一瞬で溶かすほどの火力はない。口から吐き出した炎。短い屋上の助走。柵を踏み越えようとした一歩に、飯田は墜落しながら手を伸ばそうとした。
「!? 飛べるのか!!?」
――強く圧縮された炎は、酸素と摩擦で爆破を起こす。文化祭で使う火の玉の訓練をしながら気づいたことだ。
こんな高い屋上から心操のサポートなく飛び降りるなんてしたこともないけれど。
身体の周りを渦巻く炎。柵を踏んだ瞬間、靴の裏と柵の間でできるだけ炎を圧縮させる。握りしめていた右手を開くのと、靴底が摩擦をかけるタイミング。轟の氷が背後に迫る直前、ドォンと爆豪には劣る爆破音が響いた。
勢いあまって放り出された四肢。爆風に煽られて更に上空へと飛び出して、飯田が配管を足場にしているのを見るよりも先に吐き出した炎で壁を作りだした。彼の動きに合わせていれば、捕まるのは明白だ。必ずその近くを足場にしてこちらに来ることは分かっていた。ならば、先回りして進路を阻むのみ。
急速に落下していく身体。左手首のリングを指に引っ掛けた。
素早く引いて出てきた耐炎性の帆。丸みを帯びた帆を最初に見たときに、発目に個性の話をしたということから思い浮かんだのは一つしかなかった。
『熱気球の原理って…あの、空気の熱の違いで浮力を生むってこと?』
『そうだと思う。この帆、膨らんだときにリングとバングルを近づけると気球みたいな形になるの。だから多分、そういうイメージなんじゃないかなって』
風が強く吹いていて、身体が攫われる。左手首を曲げて鋼線を前方の剥き出しの配管に括りつけた。先程の建物と同等の高さのある排気管の上に飛び降りて、リングを離せば帆が収納される。
飯田はエンジンで加速させた足を振りぬいて炎を蹴散らせると一度失速し、再度轟の作った氷の足場でこちらに指標を向けていた。
――大丈夫。もう、"大丈夫"になりたいのだ。
排気管から転落する。足下にあった配管、壁、柵。鋼線を巻き付け、引き寄せ、壁を蹴り、そして落ちながら、運動場γ特有の暗闇に乗じた。
轟を目視できていないが、大氷壁で臨戦しているところを見ると恐らくまだ地面に近いところを走っているのだろう。二人以上の攻撃がなかったことを考えると、三人目がいないか、もしくは攻撃性能の低い索敵係。――つまり、口田か耳郎。ただ、飯田の科白から屋上にいた名前を見つけたのは轟ということになる。そうすると、動物による発見ではないので恐らくいるとするならば耳郎だ。
配管の甲高い音を立てながらの移動。耳郎により追尾されていることは分かってはいるけれど、教室が三つ分ほどの工場のようなここは撹乱するには適していた。明り取りの窓はなく、電気回路も通っていないお陰で、どこもかしこも足元も覚束ない真っ暗闇だ。何度か来たことのある名前でさえ探りながら走っている。
――空間を凍らせる氷壁は名前が対抗すれば体育祭のような爆発を引き起こしかねない。轟が炎を使わない限りは飯田も暗闇でエンジンを使えない。彼が炎を使えば名前がそれを奪える。耳郎のイヤホンでは聞こえたとしても状況を他人に投影させられない。
追いかけられても、彼らに個性は使えない。
背後から足音が響いている。反響しているせいで距離感が分からない。どちらも姿を捉えることはできていないはずだ。
――暗い。足音だけが響いている。呼吸の乱れる音は、名前のものだろうか。
もうすぐ、行き止まりだ。逃げられるか? 逃げ道はどれだけある? 耳郎に見つからないようにできるか?
ごくりと生唾を飲み込む。刹那。
「ッ!?」
パキ、と音がした。一瞬にして空気が真冬のように冷え込む。壁一面が凍り付く音が、四方から響く。パキパキと薄氷が割れる音。
足が、動かない。
――大丈夫になりたい。それだけが、名前にとっての目標だった。
「ッふ、!」
緑谷、お前がやりたいことはなんだ。
相澤の鋭い眼光を思い出す。喉が焼け付く熱を覚える。
彼らと名前とを分断する炎。工場を焼くような熱に氷が溶けていく音がする。炎を裂くような氷が間を貫くが、勢いは止まない。この炎を消し止めるには彼のもっと大きな氷壁が必要で、そうすると自身で進路を阻むのだ。
足場が溶ける。熱に溶かされて頭上から垂れ落ちる水滴を浴びながら、右側にある鉄鋼の扉を押し開けた。僅かな隙間から身を滑り込ませて、閂を渡す。炎は消えるが、再びの暗闇に目も慣れないだろう。短い廊下の左側に二つある割れた窓の向こうにある送電線に鋼線を括りつけて、二階相当の窓から飛び降りた。
* * *
「だめだ、完全に見失った!」
「この広さに対して敵一人…思ったより厳しいな」
「しかもB組と打って変わって迎撃する意思がないからな」
開始から十分が経った頃だろうか、三人は彼女を見失った工場から脱出した後、作戦を立て直していた。耳郎には引き続きジャックを繋げて索敵を続けてもらっているが、距離や物理的な物質の介入により精度は大きく前後する。
飯田は連戦によるエンジンの燃料不足を気にしながら、腰に手を当てたまま何かを考えている様子の轟を一瞥した。
「…まさか、あそこで飛び降りる選択があるなんて思わなかった」
「ああ。アイテムの所持もそうだが、火を吹くだけの個性でもあんな使い方ができるとは」
「…やっぱこの試験、ただの個性訓練じゃねえだろ――」
「――見つけた! あの奥の棟から足音!」
轟の言いかけた言葉も気になるが、今は彼女を捕らえることが先決だ。耳郎の指さす方向に向かって飯田がエンジンを切るが、その背を轟が引き留める。
「目視したら個性使ってくれ。またさっきみてえに空中で炎の壁作られたら、その対処で減速するだろ」
「あれ、やっぱり飯田対策じゃない? 飯田のエンジン、足場がないと使えないし」
緑谷出久も、よく思考を止めない人だった。何か糸口でもと少しの思考も止めないでいる。彼女もそういうところがあるのだろう。もしかしたら心の奥底で彼女を侮っていたのだろうか。ヒーロー科としての驕りでも、あったというのだろうか。
行くぞ。轟の背中を追いかける。名前の気配は、飯田にはまだ分からなかった。
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