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頭がぐらぐらする。足元はもうずっと覚束ない。何度も何度も、配管から足を滑らせた。
内側から滾るような熱が逃げ場もなく溜まっていくのが分かる。喉が焼かれていく。あとどれだけこの熱を吐き出し続けていればここから逃げられるだろうか。
――足が、凍り付く。飯田のジェットが回転数を上げる。悪足掻きのように渦巻いた炎の中心で蹲りながら、息を吐きだしてはその熱に耐える。


「名前!!」


空から降ってきた声に顔をあげれば、太陽を背に出久がそこにいた。
もう大丈夫。僕が来た。
誰よりも憧れて憧れて、それでも何者にもなれずに萎んでいった出久が受け継いだ個性を必死に飼いならしている。まだ、その途中だ。そんなことはわかってる。これから先、どんなことが待ち受けているかも分からない。この先に何があるかなんて誰にも分らない。もしかしたら今までの不安や恐怖や孤独や距離や、そんなものさえ曖昧にしてしまうほどの何かが其処にはあるのかもしれない。どんな未来が其処にあるのかも、それが仮令どれだけの幸福を、悲劇を、絶望を、凄惨を、希望を、散りばめているのかさえ、分からない。
それでも。
出久の伸ばされた手を取った。どこからか聞こえてきた笛の音が、終わりを報せている。――これがもしも、本当に敵から逃げている最中だったとしたら。そんなものに時間きっかりの終わりなんてない。優しくもない。出久だって、間に合うかなんてそんなものは分からない。
それでも。


「――大丈夫だよ。いず」


出久の背中には沢山のものが乗っている。圧し掛かっている。それらはいつか彼の足元さえも埋めてしまうほどの重さを持っているかもしれない。そんなものに、名前はなりたくなかった。それらを共に背負いたいと思うことは、矢張りただの希望論にしか過ぎないのかもしれないけれど。


「もう、大丈夫だよ、私、ちゃんと、逃げられてたでしょ?」


酷い、しわがれた声だ。
出久は薄っすらと膜の張る両目を腕でこすりつけて、握りしめていた手を引き上げた。


「うん…っちゃんと、強かった!」


出久と名前の間には、途方もない透明な虚勢が積み上がっていた。いつだって中身のない"大丈夫"が連なっていた。
本当はそんなもの、どこにも必要はなかったのに。



   *     *     *



轟の氷で首元を冷やしながら舞台に戻ると、呆れたような顔を浮かべた相澤が立っていた。


「…まあ、言いたいことは山ほどあるが」


ふう、と息を吐いた彼は、小脇に抱えていたバインダーで名前の頭をぽすりと叩いた。


「上出来だ」
「! …はい!」


横合いからペットボトルを取り出した心操にありがとうと言えば、相変わらず酷い声と笑った。


「お前はそのまま婆さんのところに行って治してもらってこい」


それだけを言うと相澤は轟や飯田、耳郎に講評を伝えに行った。その去っていく背中にどっと疲れが押し寄せてきて、思わずペットボトルを抱えながらしゃがみ込む。同じように膝を折り畳んだ出久は、目の前で笑った。


「リールの使い方、心操君みたいでめっちゃカッコ良かった」
「だってずっと見てたから」


ね、と心操を見上げると、気まずそうな顔をして彼は項に手をかけて反対側を見やる。
――彼の速さに追いつきたい一心だったあの日々が、ようやく報われたような気がした。いや、これはただの訓練なのだから、これで終わりだなんてそんな明確な線など引くことはできない。出久が卒業するまでに、名前ができることは最大限だってやるべきなのだ。彼の大丈夫になる為に。
冷たいペットボトルを首元に宛がいながら、しわがれた喉に咳を一つする。出久の向こう側で、ぱちりと爆豪と目が合った。


「…なんのために、ここまでするんだろって思った」


不意に出久が零した強張った声に視線を戻すと、彼はすっと膝を伸ばして立ち上がる。太陽が眩しい空に目を細めて、名前もつられて膝に手を突いて立ち上がった。


「名前は、ほんと、昔っから僕なんかよりずっと、ヒーローだね」


――生まれる前から一緒だった。母の胎の中で背中を合わせて形作られていた頃からそこにいて、そうして、両親の個性を一身にもらい受けてしまった。個性のない出久も、ヒーローになりたい希望も、そうなれない現実も、卑下するばかりの他人も、指をさして嗤われる日々も。個性を奪って生まれてしまったばっかりに、とそう思いながら隠し続けていた本当のこと。そんな個性のせいで傷ついた炭谷のことも、全部を隠して出久の隣に立っていたあの頃。


「…僕はやっぱり、名前のこと一番にだって守りたいけど、多分きっと、名前が一番、僕のこと守ってくれてたんだね」


無関係にはなれない。出久がこれから先どれだけの誰かを救おうと、どんなヒーローになろうと。緑谷出久にとって唯一の兄妹である緑谷名前がいることは変わらない。それが、誰かにとっての何かになってしまうとしても。そうなるかもしれないという不安を出久に抱かせたくはない。だから、"大丈夫になりたい"と思ったのだ。


「だから、名前はずっと、僕のヒーローだ」


なにそれ。
そう言いたかったのに、しわがれた声を飲み込むことに必死で、下手な笑い顔を浮かべるだけで精一杯だった。

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