夜に飲まれる
時々、夢を見る。
月明かりがひどく眩しい夜を背に、あの屋上に立っている夢だ。フェンスはいつも飛び越えていて、狭い足場の上にかろうじて立っている。そういう、夢。
足を踏み出さなければいけないという強迫や焦燥はない。ただ呆然とそこに立っているだけの瞬間が続いていく。瞬きを何度も繰り返すような短い一瞬の間に気がつくと影が一つ増えていて、その影を見上げるようにしながら、名前の身体は墜落していく。――いや、墜落ではないのだろう。
足場のない空間を漂う自身の身体を"重い"のだと自覚する頃に、ようやく瞼の裏の景色を見る。
「……ん、」
素肌を撫でる柔らかな毛布。身体が沈むマットレスは手足を伸ばしても縁がない。吸い込んだ呼吸の中に、夏の碧さが滲んでいた。
――瞼を持ち上げて、未だ朝日の昇り切らない薄暗闇の部屋を見渡した。天井の輪郭を辿り、窓に下がるカーテンから視界を滑らせて隅に置かれる簡易デスクに気がついた。
オールマイトの時計が秒針を刻んでいる。その隣に並ぶ精巧なフィギュアがこちらを見ていて、今は懐かしいあの頃の笑顔を浮かべていた。
(……緑谷さんの、部屋、だ)
肘をついて起き上がると、肩口までしっかりとかけられていた毛布が腹に落ちる。毛布を捲れば、ミントのワンピースのプリーツは案の定皺だらけで、細いネックレスが首にまとわりついていた。
肩から垂れ落ちた髪に、徐にサイドチェストを見遣れば髪をまとめていたバレッタが置かれている。その隣にあった携帯の画面に触れれば、深夜の三時を回ったところだと知った。
再び顔を上げて、少しばかりの好奇心に部屋をぐるりと見回した。
緑谷の看病をしていたあの夜は、私室を見ることは憚れて、いつも彼の周辺ばかりを見ていた。リビングに思いの外オールマイトのグッズが少ないことに驚いた記憶があったが、成程、こちらの部屋にきちんと鎮座していたということのようだ。
ふ、と思わず溢れた笑いに視線を落として、細く長い息を吐いた。
「……迷惑、かけちゃったな」
彼は優しい。酔っ払いの戯言に付き合って、果てには眠ってしまった名前をわざわざ背負ってここまで運んでくれたのだ。バレッタの一つでさえ優しさを垣間見て、喉の奥の閉塞感に瞼を閉じる。
隣にいたいと声を上げて泣いたことを、昨日のことのように思い出せる。緑谷の底のない優しさにぐずぐずと沈んでいくような感覚に、言いようのない――不安、なのだろうか。適当な言葉も浮かばないが、ただ――それが、大勢の誰かに降り注いではほしくないと、思う。
差し出された傘に入るのは、一人が限度だろう。
たった一つの傘を手に駅に迎えにきた緑谷は、それと同じ距離で名前の隣にやってくる。
この距離に名前をつけることを恐れている。
終わりが見えてしまうことを、脆くも崩れてしまうことを、隣にすら立てなくなることを、あんなふうに言葉を待ってくれることを、それら全てを失ってしまうかもしれないことを。改装されたアパートに戻った時のような空虚に食べられる。それが、怖い。とてもとても、怖いのだ。それと同時に、擡げられた傘に入るのが名前ではない他人であることも。
どれもこれも、名字名前が名字名前でいられるためのもので、それは利己的な思考回路で、どうあることが最適なのかを、考えあぐねている。
ベッドから両足を下ろして、毛布を抱え込む。冬に近づく夜は冷たさを増していて、フローリングに晒す足が冷水を踏んでいるような気さえする。
部屋を出て、左手のリビングのドアを押し開ける。エアコンが停止したままの部屋に、ふるりと身震いした。
こちらに背を向けるソファから、だらりとした足が見えている。そっと近づけば、見覚えのあるこの時期に合わない薄手の毛布を腹にかけて眠っている緑谷がいた。寝相がいいのか悪いのか、半分以上がカーペットに落ちていて、これでは風邪も喜んでやってくるだろう。
彼の掛けていたものと今しがた持ってきたものを取り替えようと、手を伸ばした。
「!」
「っ、ひ!?」
前触れもなく唐突に、がしりと厚い手のひらが名前の手首を掴み上げる。
ひねり上げるような手つきに持っていた毛布を落として、膝から崩れるようにへたり込んだ。
息を吸うことすら躊躇うほどに、射抜かれている。何をしようとしていたのだと言葉もなく問いただされている空気に、瞬きすらもできなかった。
見開かれた瞼の下にあった双眸が名前を見定めている。喉が張り付いて言葉にもならない声を震わせると、ハッとした彼は勢いよく手を離して、それからうわ言のように「名字さん」と呟いた。
「! あ、いや、ご、ごごめん!! 気配に、びっくりして、思わず……!!」
大丈夫という言い慣れた単語ですら出てこない。微動だにしない名前に緑谷は慌てて身体を起き上がらせて、ソファから滑り落ちるようにカーペットに座り込んだ。
同じ目線になる辺りまで背中を丸めた彼の口から、ごめんと大丈夫が混ざり合って吐き出されている。
弱い心臓が指の先まで震わせている。彼のオロオロとした手が、こんなにも強く鋭いものだとは思わなかった。
「……名字、さん?」
おそらくは、何杯目かに飲んだ日本酒が神経や思考の回路尽くを遅滞させていたのだと思う。
浮かれていたのかもしれない。遠いものには、と何度も吐露された言葉に。
掴まれた感触の残る左手首を右手で覆う。
涙を掠め取る指先をやわらかいと思うことばかりで、彼の手や雰囲気を、鋭いと思ったことなど一度もなかった。
カーテンの隙間から溢れる夜独特の薄明かりが彼の緑の瞳をわずかに反射させていて、それだけがリビングの暗闇に浮いて見えるせいで喉が引きつく。痛かったねと慈しんでくれた瞳の筈だというのに。
「……ごめんね、毛布、かけようとしてくれたんだよね」
ありがとう。
へらりと笑った顔で、彼はわずかに身をひいた。
――名字名前は、弱い人間だ。生まれてからずっとヒーローが守ってくれていた安穏とした社会で生きていて、彼らの血生臭い日常とは余程かけ離れた日々を過ごしていた。
「家に行くのも気が引けて、事務所じゃ寒いだろうから僕の家にしちゃったんだけど、まだ暗いし、朝になったら家まで送るよ」
緑谷はゆっくりと立ち上がって、名前の近くに落ちていた毛布を掴み上げる。
「僕、部屋に戻るね」
ソファに毛布をかけてから、わざと名前を迂回するようにソファを回って、ピッと機械音を鳴らせてから彼はリビングを出ていった。
足音がドアの向こうに消えた頃、今まで止まっていたエアコンが急に風を送り始めた。温まりきっていない風が頸を撫でていく。
喉の奥で、言葉が詰まっている。背筋が震えて下を向くと、ぱたりと腿の上に温い滴が落ちた。慌てて目尻に触れると、既にじっとりと濡れていた。
名字名前は、許せないほど弱い人間で、その弱さに隠れて諦めていて、逃げていて、いつもいつも言葉を飲み込んで被害者じみた顔をしてうずくまっている。そんな自分が誰よりも大嫌いで、そんな自分と向き合おうとしてくれた彼の鋭さに怯えて拒んでしまった。
「…っ」
声が、出ない。
飲み込んで擬態を続けてきた罰が当たったのだ。