恐ろしいひと

ヒーローデクを表す言葉は何かと、いつだかのバラエティ番組で街頭アンケートを取っているのを見たことがある。
優しい、と誰も彼もが同じように笑って答えていた。どんな年齢層の男女に聞いたところで、返ってくる答えは決まってそれだったのだ。そうだろうなと思う反面、そういえば、ひどく恐ろしさを覚えていたことを不意に思い出した。
彼が右顔面に傷を負った後の出来事だった。消えない傷を背負おうほど、敵との戦闘は激しかった。連絡を取らなかった間も彼は戦い続けていて、そして今も彼は何処へでも赴いている。
せめて手の届く範囲の人たちは救けたいのだと言っていたのは、彼と出逢うよりもずっと昔のことだったと思う。
優しい。敵に対しても優しいのだと、云う。――どんな相手であろうとそうでいられる訳がない。
優しいという言葉は、とても便利で簡単で、理想的で脅迫的だ。
彼を構成する優しいという単語が、傷を負うであろう事象を前にしてもまとわりついているだなんてことはあり得ない。そうでなければ彼が、あるいは誰かが、死んでしまうかもしれない。そういうことも知らずに発せられる無責任な評価を、今にして思えば恐ろしいと思ったのだろう。
――そうであるなら、名前も所詮は同じ類だ。
優しさだけで成り立つわけがないと知りながら、理路整然とした思考回路で否定をしておきながら、実際はこうして声を上げることすらもできない。
彼のあの鋭さは自衛だろう。当たり前だ。でなければ、誰が"デク"を守ってくれるというのだ。
――恐ろしいと思った。ひねり上げるような手の力は、いまだに名前の手首を捕らえ続けている。目の前にいる他人が害を成すか否かを見定めて、敵であると分かれば容赦なくそのまま攻撃に転じることを思考していた。
――恐ろしかった。デクはこんなふうに敵の前に立っているのだろう。その背で無関係な他人の群れを庇いながら。
優しさだけで救いたいものが救えるのであれば、彼に傷の一つもありはしなかった。
ずぶずぶと終わりのない底なし沼の、まるで呼吸を止める真綿のような、脳髄を溶かす猛毒というに相応しい"緑谷出久"というものは、形容し難い優しさと鋭さをかき混ぜて作ったおそれを内包している。
――恐ろしかった。だから、それで良かったのだ。
頬を濡らしていた水滴を拭った。
エアコンから吐き出される温い風が部屋を徐々に温めていく。窓の外の街は暗く、日が昇る気配はまだない。
髪を梳いて、もう一度バレッタでまとめ直した。
長く座り込んでいたせいでふくらはぎがピリピリと痺れを訴えていて、思わず立ち上がりながらソファに手をつくと、いきおい毛布がずるりと背もたれから滑り落ちる。
柔らかな毛布を抱えてリビングのドアを開けると、冷たい空気が肌を刺した。フローリングは言わずもがな冷水に浸されていたようで、たった数歩先の緑谷の部屋まで爪先で歩いた。
ぎゅうと抱きしめた毛布から夏の碧い匂いがして、少しだけまた泣きそうになる。


「……緑谷さん」


眠ってはいないだろう。
僅かに人の動く音が聞こえて、ドアにそっと額を預ける。


「い、ままで、緑谷さんが、あんまりに、優しくて、だから……さっきはとても、怖かったです」


言葉はいつも難しい。共感など得られないと諦めることばかりで、相手に伝える術を捨ててきた。適当な相槌と愛想のいい顔を浮かべて誤魔化して、相手と衝突することを避けて飲み込んでさえいれば、言葉は少なくて済む。それで良かった。
怖くないと、言えば良かったのだろうか。其方を選べば彼を傷つけることはなかっただろうか。いや、そんなものは取って付けただけの言葉に過ぎないことなど明白だ。
――緑谷出久という人は、知りたいのだという。名前が今まで捨ててきた言葉を、無かったことにしたくはないのだという。
それは、ひどく胸が空いた。この二週間、彼との会話は心が痛くなる。今まで捨ててきた想いと向き合わなければいけなくて、痛くて痛くて――嬉しかった。
だから、これは間違いではないと思える。


「怖くて、良かった」


まるで砂粒の中から形も分からない何かを探している。途方もなくて、答えはなくて、けれど、それを二人で探しているといつかは何かが見つかるような気がするのだ。その"いつか"と思えることでさえ、泣きたくなることを知っている。


「緑谷さん、が、優しいだけの人ではなくて、良かった」


かちゃりと音を立てて、ゆっくりとノブが傾いた。開かれそうで隙間はぴたりと閉じたままのドアを、名前が両手を添えて押し開ける。大した抵抗もなく開かれたドアの先で、緑谷は顔を歪めて立っていた。


「……ごめんなさい、緑谷さん」
「っなんで、名字さんが謝るの。僕が、怖い思いをさせたから」
「……緑谷さんを優しいばかりの人だって、思い込んでたんです。勝手に緑谷さんを決めつけてたから、優しいだけじゃ、きっと、緑谷さんがたくさん傷ついてしまうから、」


瞬きを繰り返す目尻から溢れる涙は、言葉の不甲斐なさに憤っているからだ。こんなことが言いたかったわけではなく、彼に伝えるべき言葉は、本当はずっと前からあったのだ。


「私、緑谷さんの隣にいたい、です」
「……名字さん、」
「緑谷さんのこと、ちゃんと知りたい、知っていきたい……私――」
「ま、待って!」


彼は静止をかけるように手のひらを名前に向けてから、唇をまごつかせた。
緑の丸い瞳を左右に揺らせながら、少しだけ息をこぼして、名前を見る。
右手がいつかの雨の日のように二人の間で宙に浮いているので、小首をかしげるような仕草で彼の右手に頬を寄せた。するりと親指が目尻を撫でて、涙を払う。
この手を、よく知っている。
これがどんな力を持っていて、どんな意図があったとしても、緑谷出久の手であることに変わりはない。


「っ……僕は、貴女が思ってるよりずっと、自分本位で、欲張りで、優しくなんかないと思う」
「……はい」
「だから僕は、名字さんの隣にいたい。……名字さんが好きだから、これからも隣にいたい」


生きていてほしい。笑って、生きていてほしい。
夢で見るあの屋上の先で、いつも立っているのは彼だった。
飛び降りたっていいのだと彼が選んだ選択を、夢の中で繰り返している。見上げた空に浮かぶ星々を繋いでいる瞬間さえ覚えているほどに、ゆっくりと長い墜落に安堵していた。彼がいなければ、この夢はいつまで経っても生きてはいたくないがための復路を持たない夢のまま――あるいは現実にさえなりうるもの――だった。
変容は恐ろしい。同じように抱えている想像が、いつ歪み始めていくのかも分からない。この手が離れていく未来などありはしないと断言することもできない。その先に自分以外の他人がいるということも。――ただ、そうだ。
真っ直ぐに見つめてくる彼の口から、根拠もない曖昧な表現で未来を確定づけさせるような言葉が出てこなかったことが、どこまでも希望を願う言葉であったことが。いつの間にか足元は薄氷ではなくなっていたのだと気付かされる。どうかそうあり続けてほしいと、不明瞭な日々を彼と同じく願っている自分がいる。


「……名字、さ――っわ、」


毛布ごと彼に寄りかかると、よろめきもしない身体で真正面から受け止められた。
喉の奥が塞ぐような、際限なく涙がこぼれてくるこの気持ちを伝えるには、果て無くある砂丘の何処を探したら見つかるだろうか。ひどく時間のかかることだろうけれど、きっと、今この瞬間でなくともいいのかもしれない。


「わたしも、好き、です…っ」


彼の隣で、柔らかで揺蕩うような、形のない日々が続いていくというのなら。もう少しだけ時間をかけて、降り積もる音を紡いでいてもいいのだろう。