雛がつばさを伸ばすとき
「おっと!こちらの通行料は1000円となっていますですー!」
「何無茶苦茶なこと言ってるんだ、ロケット団!僕とバトルして、勝ったらここをどいてもらうぞ!」
「…ははーん、お前みたいなガキが俺に勝てると?いいぜ、その代わり俺たちロケット団が勝ったらお前のポケモンいただくぜ!」
「いいよ!その話乗った!けど僕は絶対負けない!だから大丈夫だよバクフーン」
『ヒビキ…!そんな、』
「バクフーンは僕の相棒だから、最後の切り札だ。初手は任せたよ、ヌオー!」
43番道路は林に囲まれた道。草木の広がる道を突き進んでポケモンと出会うのも良し、舗装された道を通っていち早くいかりの湖へ向かうも良し、と言ったところか。今は早く湖へ行って、ヒビキくんを見つけなきゃならないから、勿論後者を選ぶ。だけど思ったより早く彼を見つけてしまった。二つ目のゲートを通ろうと足を踏み入れかけた時、ゲートの中から聞こえた声。…明らかに、ヒビキくんだ。
私がとっさにゲートの影に隠れた時には、既にバトルは始まっていたらしい。ヌオーのマッドショットだろうか、濁流の轟音が聞こえたかと思った数秒後には、相手のゴルバットに噛み付かれたような悲鳴が上がる。だがそれにも負けじと叫ぶヒビキくんの声の空気に、私は重要なことを忘れていたのだと気付いた。これは、普段私がするようなトレーニングのためのバトルではない。正義のための、トレーナーのためのバトルなのだ。彼らにポケモンバトルというのは、あくまでもひとつの手段。チェスで勝負するか、喧嘩で勝負するか、それと同じことなのだ。大事なのは勝つこと。私のような、正規のポケモンバトルの中で甘く育ってしまったトレーナーが、太刀打ちできるようなものではないんじゃないか。
そんな怯えがまた心を支配しそうになって、必死に逃げそうになるのを押さえつけている間に、バトルは終盤に差し掛かっていたらしい。バクフーンの鳴き声が聞こえた。
「バクフーン!だいもんじ!」
「ゴルバット、ヘドロばくだん!」
轟音。ある程度距離のある私まで技の衝撃波と爆風に煽られ、目を開けていられないほどだ。こっそりと中を覗き込むと、煙の中に影がひとつ。…バクフーンだ。ヒビキくんが、勝ったのだ。
「さあ、早くここからいなくなれよ!」
ヒビキくんの声が煙の中を突き抜ける。どこか誇らしげで、嬉しそうとも聞こえるその声に、なんとなく複雑な思いがもやつく。
しかし、その誇らしさは一瞬にして崩れ去った。どすん、という音がして、一つ残った影が倒れたのだった。
「バクフーン!」
とうとう限界が来たのだろう。バクフーンの息は荒く、意識も朦朧としていた。ヒビキくんは途端にバクフーンに駆け寄ると、がたがたとその体を揺さぶる。結局、私は相も変わらず傍観者のままで、あのバクフーンを助けることが出来なかったのだ。せり上がってくる罪悪感が喉元までやってきて気持ちが悪い。私が一歩踏み出していたなら、何か変わっていたのだろうか?
「バクフーン!そんな…すぐポケモンセンターに…!」
「…ははーん、結局引き分けじゃねーか!」
「違う!お前のポケモンのほうが先に倒れた!」
ばっと顔を振り上げて噛みつき返すヒビキくんを見下しながら、ロケット団の男は挑発的に眉を歪めている。何か、嫌な予感がする。
「いや、引き分けじゃねーな。俺の…俺らの!ロケット団の勝ちだぜ!いつからお前、俺が一人だと勘違いしてんだ!」
「何、お前こんな奴にコテンパンにされたの?馬鹿だねえ。…はい、俺が救援で呼ばれたロケット団その2でーす…ってところかな。俺たちは戦えるポケモンをまだ持っている。俺のポケモンがね。そして君は持っていない。これで決まりだ、君は負けだよ」
ひらひらと手を振りながら、私とはちょうど反対側の入り口からゲート内に入ってきたもう一人の男。当然のように真っ黒な服装で、大きくRと書かれている。…こんなの、おかしい。だってあの男は俺に勝ったらいなくなると言って――いや、違う。あの男は確か、"俺たちロケット団に勝ったら"と言って、バトルを始めていた。最初から仕組まれていたことだったのだ。でも、でも、やっぱりずるい。そんな私のもだついた思いを代弁するかのように、ヒビキくんが叫ぶ。
「そんな、無茶苦茶だ!」
「俺たちロケット団っていうのはなあ、無茶苦茶なことがしたい奴らが集まった組織なんだよ!」
「うん。じゃあ君、そういうことでさ。まずそのバクフーンをくれる?」
「嫌だ!誰がやるもんか!」
男たちはバクフーンの元に座り込むヒビキくんの前で屈みこんで、ニンマリ、口元に怪しく弧を描く。ヒビキくんは唇を噛み締めながら必死に睨み返しているけれど、その姿は屈辱と焦燥に塗れていて、相手に刃向かえているとは到底言い難いものだった。
私はそれをただ、影から見つめているだけ。聞いているだけ。…何も、できない。かわいそうとか、くやしいとかは思うけれど、結局私は無力なただの女の子に過ぎなくて、あの男たちを倒す実力も、立ち向かう勇気もない。だって、それで困ったことなんてなかったから。私が自分の意志で動かなくても、私の周りのひとたちが皆優しくて、大丈夫だと言ってくれたから。私はただ、私が思うがままのことをしていた。私は彼らの加護の中で、大切に、大切に育てられて、まるでどこまでも行けるような錯覚をしていた。
ああ、なんて幸せな、あたたかな温床なんだろう!でも今、幸せなはずのその記憶が、憎らしい。――いや、記憶ではない。私が憎いのは、私自身だ。何でもできるような気がしていたのは彼方たちがいてくれたからなのに、まるで自分の力だと勘違いしていた私が嫌い。こんなか弱くて、ひとりぼっちでは何もできない私が嫌い!その場にうずくまって、頭を抱えて耳を塞いだ。
…でも、もし、もしもだ。一筋の光が、ふわりと暗い思考を照らす。でもこれは、仮定の話で、私には到底できっこない話。拳を握りしめた彼の元に今私が駆け込んでいったら、どうなるのだろう。私という二人目がヒビキくんの仲間として出るのだ。私が勝てば、あのバクフーンたちが主人と離れることを、防げるかもしれない。私は少しだけ、変われる。けれど私が負けたら。きっとロケット団はヒビキくんのポケモンだけではなく、彼方たちをも奪おうとしてくるだろう。そんなの、絶対に嫌。絶対に渡さない。
でも、だからといって、このまま私は彼らを、そして変わろうとした私自身を見過ごして罪悪感や後悔と一緒に生きるの?しかも彼らはお互いすれ違ったまま、伝えたいことを伝えられないまま。私だけが全ての出来事を知っている。私だけが全ての出来事を、今決まろうとしている彼らの運命を、変えることができるかもしれない。それが私の運命も変えてしまったとしても、それで後悔しても、私は動きたい。一歩踏み出して、臆病な自分の殻を叩き割りたい…なんて、もしもの私は思えるの?――ううん。これは、私自身だ。臆病の裏側の欲求、籠の中からの欲望だ。
壁に背中を合わせて、胸に手を置き深呼吸。それでもやはり、怖くて怖くてたまらないと、この心臓は叫んでいる。ああ、こんなところ来なければ良かった。あのバクフーンに同情してヒビキくんを追い掛けなければ、こんなバトルも目撃しないで、私は何の疑いもなくこれからも彼方たちといられたのに。
でも、それじゃいけないんだ。私は、変わりたいと思ったんだ。もうずっと泣き虫をしているのは嫌。古い記憶から、自分自身から、自分で手を伸ばして羽を広げて地図を見て、自由になりたいと思ったんだ。私は私のために、変わりたいんだ。
足を踏み出せ。駆けろ。声を出せ。心と同じ声を今、言葉にしろ。大声で張り上げろ。
「っ、…待って!!」
運命を、変えてみせる。
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