雛がつばさを伸ばすとき

「待って!!」

足を踏み出せ。駆けろ。声を出せ。心と同じ声を今、言葉にしろ。大声で張り上げろ。

…そのつもりだったんだけど、実際私の耳に聞こえてきたのはただのか細く震えた声で、怯えているのがバレバレだ。こ、こんなはずじゃなかった。

三人分の視線を一気に食らう。一つ分は驚き、もう二つ分は見定めるかのように私の全身を舐め回す視線。つつ、と輪郭をたどる様子は、これ以上なくあからさまに私を怪しみながら、同時に価値判断をしている。…気持ち悪い。彼らの強欲に塗れた目に、私はどう映っているのだろう。全身にざあっと悪寒が走り、脚ががたつきそうになる。やっぱり嫌。逃げ出したい。それでも私が何とか立っていられるのは、そんな臆病に打ち勝とうとしている私が私の中に強くいるからだ。それは理央の言葉で気付かされた、私のなかのひとり。…もう、何も立ち向かえずに倒れるなんて、かっこわるい。立ち向かって、私自身に負けたくない。そして、今度こそ。自由に手を伸ばしたいのだ。

俯いて、目を閉じる。いち、にい、さん。大丈夫、大丈夫。ぐ、と爪先を手のひらに食い込ませ、ゆっくり目を開き、ゆっくり顔を上げる。真っ直ぐに見据えた先にいる男二人の一瞬の慄きが、その瞳の動きから分かった。

「ヒナリ…!?どうして!」

「ごめんねヒビキくん。でも、どうしてもこうしなきゃ、だめなの」

「…おうおう。何だこりゃ。正義のヒロインごっこなら他所でやるんだよお嬢ちゃん。それとも何だ、俺たちの仲間になるかい?仕事ならちょうどイイのが空いてるぜ」

「……!あ、あなたヒビキくんに負けた人でしょう!なんでそんなに偉そうにしてるの!もうちょっとしおらしくしたらどうなんですか!」

ウッと虚をつかれ傷ついたみたいな素振りをする男。ざ、ざまあみろだ、舐めてかかってくるからだ!私だって、ただの大人しい女の子だなんて見くびられちゃ困る。バッジだってもう六つも揃えたんだ、旅だっていっぱいしてきたんだ!…そのくらいの気でいないと、押し潰されてしまいそうだった。もう一度拳に力を込めて、意固地になって睨みつける。

そんな様子にひとりケラケラと笑い声をあげて馬鹿にしていたもう一人の男が、ふとした瞬間、ぴたりとその声を止めた。そしてコツコツと、私の方へと歩み寄ってくる。音が近寄るたびに私の虚勢が剥がされていきそうな心地すらしたけれど、だめだ。もうここまで来てしまったら、何が何でも負けられない。

「じゃあ、俺ならどうかな?俺はあの馬鹿みたいに餓鬼にあっさり負けたりなんかしてないよ。勇敢なるお嬢様の退屈しのぎにはなれるかと?」

「ば…馬鹿にしないで!私だってトレーナーなんです!」

「ヒナリ!そんなの危なすぎる…!」

「ヒビキくんはバクフーンを早くボールに戻してあげて!チョウジの町の影響を受けてバトルの前からもう弱ってたの!」

「! ヒナリ、なんで」

「いいから早く!」

ヒビキくんの怪訝な視線に怖気付きそうになるけれど、私の正体よりも今はバクフーンのことだ。険しい口調で言い放つと、ヒビキくんはバクフーンの元にかがみこんで目線を合わせる。戸惑いの色がそのまま瞳に浮かんでいた。

「バクフーン、そうだったの…?」

小さく、バクフーンは頭を横に振る。だけどそれが強がりだというのは誰にでも分かることだった。ただバトルで体力が削られているだけとは思えないほどに、バクフーンはやつれ果てているからだ。ああまただ、痙攣したように躰をビクンと震わせている。ヒビキくんもその健気な姿を目の当たりにして、わなわなと頬を撫でた。

「バクフーン、どうして…?どうして、何も伝えてくれなかったの…?」

『だって僕は、ヒビキの、相棒だもん…。相棒は、絶対、ヒビキのそばにいなきゃ、ヒビキを支えなきゃ、ヒビキを守らなきゃ…そのためなら僕、痛いのも辛いのもなんだってがまんできるんだよ…』

薄っすらと開いた瞳から漏れるさいごの光が、ヒビキくんのゆらめくそれと合わさる。バクフーンはヒビキくんの手にそっと触れると、力なく微笑んだ。

「ううん伝えてくれなかったんじゃないんだ、僕は気がつけなかったんだ、自分のことで精一杯で、自分の夢と憧れに近づくことばっか考えてて、一番大事な君をちゃんと見ていなかった…!ごめん、ごめんねバクフーン、ごめん…!」

『違うんだよヒビキ、僕は、ほんとうに、うれしいんだ、ヒビキがキラキラしながら夢へ一直線に走ってくところを見るの、僕、だいすきなんだよ…。だからあやまるのは、さいごまで踏ん張れなかった僕のほう…でも僕今、すごく、うれしいよ』

「……、バクフーン…なんで、なんでそんな、嬉しそうに笑ってるの…?」

『あはは…、ヒビキが、僕を、見てくれたから。見捨てなかったから』

キュウ、というその一鳴きを最後に、バクフーンはゆっくりと瞼を閉じる。ほんとうに限界、のようだった。綺麗な笑顔で眠るバクフーンに、ヒビキくんは抱きついて縋り付き、肩を震わせていた。

「なんで、…なんで!なんで笑ってるの、君は苦しいはずなのに、なんで…っ!」

「…ヒビキくんが見てくれて、見捨てないでいてくれて、嬉しかったんだよ。バクフーンは、ヒビキくんのことだいすきなんだよ」

「そんなの…!僕が君を見捨てるはずがない!バクフーン、僕だって君がだいすきなのに…!」

やがて啜り泣く声が聞こえ始めると、私はヒビキくんを庇うように立ち塞がる。二人の男はそんな一連の光景を見ても、まだにやにやと性悪そうな笑みを浮かべたままだ。じっと睨みつけると、私の思う精一杯で凛と、言い放つ。

「私はヒビキくんの仲間です!だから、まだ勝負は決まってないんです!私とあなたの勝負で、今から決まる…!」

男の笑みは人の良さそうなもののはずなのに、不思議とかえってこちらを不快にさせてくるものだった。ふぅん、と口元に手を添えると私を見下し、もう一度あちこちを視線で弄られるのが気持ち悪くて、突発的にモンスターボールに手を添える。早くバトルに持ち込んでしまいたかった。すると男もその意図を察したらしく、同じようにモンスターボールをひとつ取り出すと、手元で転がし遊び始めた。

「いいよ。その代わり、約束事をしよう。使用ポケモンは一対一。時間もあまりないものでね。君が勝ったら、俺たちはここを退く。もう手出しはしないだろう。ただし俺が勝ったら、あそこにいる彼のポケモンと…うーんやっぱり、俺、君が欲しいな。お嬢様」

「え…?」

わ、私?だってロケット団はポケモンを使って悪いことをする組織だって、だから強いポケモンを奪い取って回ってるんだって…なのにどうして私みたいな、ただの人間が?まさか私のことを知っているわけじゃないだろうし。よく分からないままだけど、腰元のモンスターボールが一斉に反論するようにがたがたと騒ぎ出していたからなんとか現実味を保てていた。

「お、おいお前、こんなただの女の子連れ去ってどうするんだよ」

「はあ、ほんと馬鹿だね。こんな弱そうなお嬢様の連れてるポケモンなんてたかが知れてるでしょ?それより君みたいな子、俺だぁいすき。一生懸命怖いの我慢して歯向かってくる子。そういうの見てると、もっといっぱい痛がらせて怖がらせたくなる。君も思わない?」

「お前…それただのサドじゃねーか…」

「褒め言葉をどうもありがとう、お馬鹿さん」

全身に悪寒が走り抜け、彼方たちのモンスターボールの揺れが一層増す。…でも、もしかしたらこれは私にとっては好都合かもしれない。だって、彼方たちを賭けの対象になんかできない。それならいっそのこと、私のこの身を賭けたほうがずっとマシだ。それと、彼方たちを馬鹿にされたのは許せないし。

きっとあとで怒られるだろうなあ、とか脳裏によぎるけれど、今を乗り切ってしまうことのほうが先だ。だからごめんね、許してね。私は勝利に賭ける。

「…分かりました。その代わり、約束はきちんと守ってくださいね」

「交渉成立だね、お嬢様。…行け、マタドガス」

一段と不気味な笑みを浮かべた男に、つい身の毛がよだつ。赤い光の中から現れたのはドガースだ。鳴き声も何もあげず、ただぼーっと光のない目で浮かんでいるその姿に、どことなく違和感を感じる。生物のような雰囲気がしない、とでも言うのだろうか。

さて、対する私はどうすべきか。腰元のボールに視線を移し、思考する。体調的に、まず理央と漣は除外。相性的には毒タイプのドガースには彼方の地面技が効くけれど、マタドガスは特性がふゆう。となると、千紘か祐月になるけれど、千紘は草タイプで毒には相性が悪い。少し考えこもうとした時だった。主に彼方や漣たちが出せとボールの中で騒いでいたようだったけど、それに比べると大人しかった一つのボールが不意に大きく揺れはじめた。このボールは…、千紘だ。だけど千紘は草タイプ、毒タイプには圧倒的に相性が悪い。絶対に勝たないといけないこのバトル、危険な賭けは出来るだけしたくないけれど。

そんな私の思いとは裏腹に、千紘のボールはついに私の鞄の中から転がり落ち、地面に叩きつけられてしまった。私が慌てる暇もなく現れた千紘は、ぎらりと瞳を光らせてマタドガスと対峙する。しゃんと立てられた耳と尻尾、戦闘準備は万全、みたいだ。だけど、…やっぱり、絶対に勝たなくちゃ。

「千紘!だめ、戻って!」

『嫌。…俺は、こいつを倒せる、から』

「千紘…!」

『倒したい。倒すのは、からだで、倒したらきっと、楽しい。楽しかったら、何か、取り戻せそうな気が、する』

何も言えなくなってしまった私のほうを、千紘は一度も振り返らない。まるで私たちと出会ったばかりのときのようだ。ただ敵に狙いを定め、どう倒すか、それがどれだけの快感であるか、頭にあるのはそれだけなんだろう。背中からの気迫がそう物語っている。

…私は知っている、この状態になった千紘は、強い。けれどその代わり、精神状態は脆いのだと。それを私が上手くカバーできたら、勝てる。

「分かったよ千紘、倒そう」

『…ん』

取り戻すって、何を?そんな疑問は、勝ったあとに聞こう。男がふんわりと、柔らかく下賤な微笑みを私へ向けて作った瞬間、バトルは開始された。
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