雛がつばさを伸ばすとき

「祐月、千紘!ジョーイさんは!?」

「ヒナリさん、それが……」

チョウジタウンは、澄んだ空気の静かな町だと聞いていた。それは、どうやら嘘だったようだ。ここはポケモンを抱えた人々でごった返す、どこかそわそわと落ち着かない町。肩がぶつかりあっても、自分のことで精一杯らしい、一瞥もせず自分の腕の中で眠るポケモンが大切らしかった。かく言う私も、そんな”人々”を構成する一員なのだけれど。

だから祐月と千紘と再会するのにも時間が掛かった。ポケモンセンターの前で待ってくれていたふたりは、私たちの姿を見るとすぐに駆け寄ってきてくれたけれど、その表情は固い。

とりあえず、中に一度入ってみてください。そう言って、祐月は自動ドアの前に立つ。小気味良いドアの開く音がした次の瞬間、すぐさまカウンターへと駆け込もうとした。が、それはすぐにブレーキを掛けられた。目の前の光景に。

「ジョーイさん!俺のニョロゾが急患なんだ!早くどうにかしてくれ!」

「私のピジョンのほうが酷い熱よ!」

「僕のメリープもだ!お願いジョーイさん、早く…!」

「お待ちください!チョウジ付近に入ったときから具合が悪くなったポケモンは、モンスターボールに入れて待機していてください!現在順番に診察しています!繰り返します、」

急患、高熱、目を覚まさない…そんな単語と、ジョーイさんの喚起の声が大量にけたたましく耳の中に入ってくる。待合用のソファーにも診察を待つ大勢のトレーナーとそのポケモンたちで一杯だ。映画や小説のパンデミックのような光景が今まさに目の前に広がっていて、私たちは只々唖然とする他なかった。ぽかんと立ち尽くしている間にも、次々にトレーナーたちが押し寄せてくる。この町に、一体何が起こっているというのだろう。病原菌?それとも、何か他の要因?

「こういうわけで、まともに取り合ってもらえなくて。診察の順番も、この様子だと明日になりそうです」

口許に手を添え、祐月は冷静に事実を伝えてくれたけれど、その声すらも辺りのざわめきに消されてしまいそうだった。宿泊用の部屋はギリギリで祐月が取ってくれたらしいから、そこでふたりをモンスターボールに戻して大人しくしているしか、今ふたりのために出来ることは無さそうだ。それでもなんだかもどかしくて、地団駄を踏むような思いでいたときだった。聞きなれた声、でも少し低くなったかもしれない――そんな懐かしい声がしたのは。

「……あ、やっぱりそうだ、ヒナリ!」

自動ドアの滑る音がしたかと思うと、たったとリズム良く駆ける足音が近づいてきた。肩を叩かれて振り向くと、そこにいたのはキャップを後ろ向きに被り、特徴的に前髪を伸ばした少年――少し雰囲気が変わったような気もするけれど、ヒビキくんだ。会うのは、ヒワダタウン以来だろうか。その傍らに、仕えるように佇むのはバクフーン。あのときのヒノアラシが、ここまで進化したんだろう。

「ヒビキくん!どうしてここに、」

「そりゃあジム戦のためだけど、こんな様子じゃ無理そうだね。それよりヒナリ、ここでポケモンが皆弱ってるのにロケット団が絡んでるって話、聞いた?」

…ヒビキくんが可笑しいくらいに執着している、ロケット団。けれど私はその執着の原因をなんとなくだけど、察していた。ヒビキくんは、"レッド"になりたいのだ。己の正義感とか、誰かのためとかポケモンのため、というわけではなく、ただ自分がレッドになりたいから。レッドも倒したというロケット団を彼も倒したいのだと、思う。男の子らしい野心、とでも言えば、言葉にまとまるのだろうか。

前までの例に漏れず、ヒビキくんはどこか盲目的な、その奥に何も見えない瞳をしていた。バクフーンくんはしゅんと耳を下げ、そんな自分の主人を不安げに見つめている。それに、妙に肩の上がり下がりが激しい。なんだか、ただ事ならぬ状況のようだ。

「ううん、初耳…まだチョウジには着いたばかりで」

「そっか…最初はいかりのみずうみから異変が起こったらしいんだ。ギャラドスが暴れてるって。だから、今からそっちへ行って、ロケット団を見つけ出して倒すんだ!」

意気揚々と、興奮したように語るヒビキくん。…確かに、ロケット団を倒そうとすることは、悪を打ち砕くことは、勇敢で立派な良いことだと、思う。けれど何だろう、この胸のもやつきは。まあでも動機が何であれ、目指してることは悪いことじゃないから…、いい、のだろうか。上手く自分の思いを言い表す言葉が見当たらずにいたとき、くぅんと彼のバクフーンが鳴いた。

『ヒビキ…僕頑張るし、ヒビキの役に立ちたいって思うけど、でも、ヒビキが無茶するのは嫌だよ…』

「どうしたのバクフーン、元気ないよ?ロケット団倒すんだから、元気出さなきゃ!」

『……。うん、そうだね。頑張るから、頑張るから。だから、見捨てないで、』

はっとして、また涙がこぼれ落ちそうになった。嬉しそうにわしゃわしゃと頭を撫でられ、曖昧に表情を緩めたバクフーン。ポケモンと人間の噛み合わない会話を聞くのは、もう昔から慣れている。私がどうにかできることでは――いや、どうにかしてはいけないということも、分かっている。でも、このバクフーンの思いは、あまりにも可哀想で、それに、まるで私の無意識の叫びを代弁しているみたいに見えて。

見捨てないで。がっかり、しないで。こんなちっぽけで弱虫な私で、何の取り柄もないけれど、どうかお願い、見捨てないで。…見捨てないで。バクフーンの声を聞いた途端、そんな内声が胸のなかに、泉のように湧き上がってきて、気を抜けば何か熱いものが零れ落ちてしまいそうだった。

「そういうわけだから、僕は早く行かなくちゃ。ヒナリは女の子だし、危ないから来ちゃ駄目だよ!行こう、バクフーン!」

『ま、待ってヒビキ…!』

駆け出してしまったヒビキくんを止めようとはしたものの、彼はもうすでにゲートを潜り抜けようとしていて。もう少しバクフーンのことを見てほしい、と言いたかった。言葉は通じなかったとしても、声や動作から伝わるものはあるはずだし、それに、あのバクフーンもこの町に来たことで何らかの影響を受け、疲れているようにも見えた。だけどあの子は、ヒビキくんに着いていきたいからって、必死にそれを隠して…。振り向けば、彼方と漣、祐月とそれから千紘も、思い思いに暗い表情をしていた。やはり、何か感じるものはあったのだろう。

「あのバクフーン、なんだか、笑ってるのに苦しそうだったね」

「……。まあ、気持ちも分からないこともないけどな。トレーナーに従うポケモンにだって、意地やプライドはあるさ」

同情するように漣がそう言うのが悔しくて、気がつけば拳を震わせ下を向いていた。そして絞り出すように言い返す。

「そんなの…っ!トレーナーだって、私だって意地もプライドもある…、自分のポケモン、大切な仲間を守りたいっていう、意地が…!」

言い終えてからはっとして顔を上げる。もしかして、傷口を抉るようなことを言ってしまったかもしれない。そう思ったけれど、彼らは皆揃ってきょとんとした後、同じ瞬間にふっと口元を緩ませたから、逆に恥ずかしくなってしまう。誰かが私の髪を撫でた。そのすぐ後に、ありがとうヒナリちゃん、なんて聞こえないくらいの声で囁かれた。

「…ヒナリ。追いかける?あの、ヒビキって人間、と、バクフーン」

しばらく辺りの匂いを嗅いでいた千紘が、ある一点にぴくりと反応したかと思うと、そう言って私のほうを振り返る。じっと真っ直ぐな眼。それはまるで私を試すかのよう。

だって、ここにいたほうがいいに決まってる。理央はまだ腕の中で眠っているし、漣や他の皆だってこの町の影響で本調子じゃない。大人しく、怖いことから目を瞑っていたほうがいいに決まっている。それが私が今彼らにしてあげられる最善のこと。

それでも、知ってしまった。聞こえてしまったのだ。あのバクフーンの叫びと、ヒビキくんの無垢故の矛盾を。今私が何もしなければ、きっと彼らは今のまま、バクフーンの声を知ることなくこれからも旅を続け、共にいるのだろう。それはきっと、当たり前のトレーナーとポケモンの関係。異常なのは私だ。でも、もし今私が動いたなら、彼らの元へ駆け込んだなら。ポケモンの声が聞こえなくたって、心と心を繋げられるのはよくわかっている。けど、もしそのほんの少し見過ごしてしまった気持ちを、拾い上げることができたなら。

「…漣、だいじょうぶ?」

「うーん…あんまり万全とは言えないかな。しばらく体力温存しておくから、ボールに入れてもらってもいい?」

「うん、お願い。彼方と祐月と、千紘は?」

「やっぱり完璧じゃないかな、チョウジに着いてからどうも変な感じはしたまま…」

「俺は、べつに…」

「僕も彼方くんと同じような感じでしょうか。念のため、皆ボールに入れたほうがいいかもしれませんね」

「じゃあ、そうする。…私のことに巻き込んでごめんね。何かおかしくなったら、絶対に言って」

「ヒナリこそ、あんまり無茶しないでね?今のヒナリ、なんでもしちゃいそう」

そう言われて、思わず苦笑した。なんだか今とても、胸の奥が熱いのだ。怖さや不安は、ずっとある。何をしたらいいのか分からないし、何のためにこんなことをしようとしているのかも分からない。ただ、今ここに、私に出来ることがある。それが、こんなでたらめな私の生まれた意味のような気がして。思い違いも甚だしいのは分かっている。それでも、私がそう信じる限り、それは私の中では真実になる。それなら思い違いを信じてみたっていいじゃないか。私は、ここにいてもいいんだ。それを支えてくれるひとたちがいるんだ。そう信じて、試してみよう、私の意味を、私の可能性を。

さすがにひとの姿をした彼方たちをこんな人ごみの中でボールに戻すわけにいかないから、部屋に戻って原型になってもらった後、彼らのおでこにこつん、とボールをぶつける。最後の一匹である祐月を戻すと、私の周りには誰もいなくなってしまった。いつも誰かはひとの姿でそばにいてくれることが多いから、何だか不思議な気分だ。孤独感に押し潰される、なんてことも、なくはない。けれど私には、五つのボールの中から私を確かに見守ってくれている、彼らがいる。
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