雛がつばさを伸ばすとき

「マタドガス。どくガスだ」

男の声が聞こえて、数秒間のロスがあった後。マタドガスは息を深く吸い込み、そしてグロテスクな色のガスをその穴から噴き出す。咳き込みそうになりながらも千紘を目で追っていたつもりが、そこには千紘の姿はない。

どうして!そう思ったのも束の間。マタドガスは顔面から床に叩きつけられている。その背面には、斬りつけられたような一直線の跡。煙の奥からゆらりと現れた千紘は、額の葉を長く変化させていて、それは切っ先の鋭さと光の鈍さを持ち合わせた刃のようだった。暗がりの中でも不気味なくらいに眩しい琥珀色の瞳はやはり、千紘の精神状態の危うさを物語っている。出会ったばかりのときに千紘がこういった軽い暴走状態になることは稀にあったけれど、今回はもっとそれが顕著なようだ。

「マタドガス、君に草技はいまひとつのはずだね。何をしているの?」

『……』

マタドガスは声も上げず、むくりと再び千紘に対峙する。それは一連の作業のようで、仕事としてあの男に従っているということはすぐに察することができた。

「マタドガス、ヘドロを地面に投げつけろ」

『!』

ヘドロがびしゃびしゃと床に飛び散っていき、それを飛び跳ねて交わしているうちに千紘の動ける範囲がだんだんと狭められていく。あのヘドロを踏んだが最後、きっと千紘は足先から毒に侵されてしまうだろう。どうにかしないと、千紘が自由に戦えなくなってしまっている。打開策を探るうちに、男の指示が飛んだ。

「そのままたいあたり」

迫ってくるマタドガスに、動けない千紘。どうしよう、焦るうちにはっと考えが浮かんで、慌てて叫ぶ。

「千紘、リーフブレードで受け流して!」

ギリギリのタイミングだったけど、瞬時に反応した千紘はさっきの刃を再び伸ばし、低く屈んでドガースに合わせて刃を滑らせる。ドガースのたいあたりのエネルギーは行き場を失い、そのまま刃の流れる方向、すなわち上に飛ばされてしまった。もともと体内が空気よりも軽いガスで出来ているポケモンだ、あっさりと天井近くにまで迫ったマタドガス。今なら隙だらけだ。

力なくふわふわと落下してきたマタドガスに、千紘が跳び上がって、そのまま斬りつけた。空気を割くような音がしたかと思うと、マタドガスは地に伏している。…瀕死状態。

ヒビキくんともう一人の男の、唖然とした声にならない声が聞こえた。よかった。これで、何とか誰も離れ離れにならずに済んだ…。私も同じようにほっと息をつこうとした時だった。

『ころす』

息切れなどはない。淡々とした、生気のない声。でもその表情は生々しく、ぎらぎらと根源的な生命力とも言うべきものが迸っていた。地に落ちたマタドガスに、また刃を突き付けている、千紘。マタドガスは無反応だ。何もかもを諦め、生きながらにして死者のような表情。まただ。ずっと前のコトネちゃんとのバトルの時と同じで、千紘はきっと、千紘の奥のほうにある何かに支配されている。ぞわりと鳥肌が立った。

「千紘、もういいの…!もう離れ離れにならないで、済むから」

『俺は、ころす、しか、知らない』

「千紘…!千紘、戻ってきて!」

『ずっと、ひとり。じぶんで、じぶんを、たすける。だから、ころす、の。しぬの。それしか、知らないから…!!』

「…千紘?」

…破壊欲に全てを奪われた、というのはどうやら見誤りらしい。千紘は、何か葛藤しているように見えた。琥珀色が揺らいで、覇気のようなものもぼんやりと曖昧になっている。耳も尻尾も萎れたように元気がない。小さな身体に背負ったものから、必死に目を逸らそうとしているような、向き合い方が分からず暗闇の中を猛進しているような、そんな気がした。

何も考えないまま千紘に駆け寄り、そしてその身体を取り上げて抱き締めた。最初こそ抵抗はあったものの、心臓の音が落ち着いていくのと一緒に千紘は私に身体を預けていく。

「千紘、もう大丈夫なんだよ…安心して、いいんだよ」

『ヒナリ、俺は、』

「千紘、もう殺すだなんて、言わなくていいんだよ」

『俺は、俺は、間違ってる…?』

「殺したらね、もう取り戻せないんだよ」

千紘の瞳が大きく開いた。初めて自覚したみたいなその様子に、心臓が皺くちゃになっていく。私はその小さな身体を必死に抱き締めた。痛いかもしれないくらいに、抱き締めた。

『ヒナリ、おれ、おれね、……』

「…うん、なあに?」

『ヒナリ、おれを、…おれを、たす、け……』

「ヒナリ、」

千紘の言葉を待つのに夢中になっているうちに、いつの間にか周りが見えなくなっていたらしい。不意にやってきたヒビキくんの暗い声に、はっと身体を震わせた。辺りを確認すると、そこにはロケット団の姿など跡形もない。ただ、ぽつりと残されたヒビキくんと私と、千紘。

「僕、これからどうしたらいいのか、分からないよ」

「ヒビキくん、」

「バクフーンの気持ちに何にも気付いてあげられなかった…ちゃんと見ているつもりだったのに、何にも…、何にも!僕は僕の憧れに、"レッド"になることばかり考えてたから、だから…!」

拳を握り締めるヒビキくんだけど、その怒りの矛先はさっきとは違って、自分自身。薄々私が勘付いていたことを、ついにヒビキくん自身で気がついたのだろう。憧れの先に何がある?だなんて、そんなの私が今悩んでるくらいだけど、でも、それでもついて来てくれる仲間がいてくれるのは、私もヒビキくんも同じ。千紘の視線を感じながら、私は語り出す。

「ヒビキくんは、きっと悪いトレーナーじゃないよ」

「…そんなはずない!僕はバクフーンを自分のために連れ回して無闇に傷つけているだけだ!!」

「バクフーンくんも、きっと他の手持ちの子も。ヒビキくんの憧れを叶えてあげたいって思ってるから、皆ついて来てくれてるんだと思うよ。確かに突っ走っちゃったりするところはあるけど、それでもヒビキくんを応援したいから、ヒビキくんが大好きだから、頑張っちゃうんだと思う」

バクフーンくんの言葉が頭を過る。ヒビキくんが何よりも大事。あんまり無茶はやめてほしい。でも、ヒビキくんのそんなところも好きだから。そんなような思いを、言葉の節々から読み取ることができた。

「それほどヒビキくんは好かれてる。それはきっと、ちゃんとヒビキくんもバクフーンたちに愛情を注いできたから、だよ。そんなトレーナーが、悪いトレーナーだなんて、あるわけない」

まるで自分に言い聞かせるみたいだ。私だって、自分の憧れのために皆を振り回してる自覚はちゃんとある。その分愛情は捧げてるつもり。けど幸せなことに、彼らは皆優しいのだ。どうしたら私の夢を叶える手伝いになるか、どうしたら本当に叶ったといえるのか。私以上に考えてくれていた。

その典型が、この前の理央だ。理央の意図が今ヒビキくんを通して、ようやく分かったような気がした。抉るような言葉の数々は、全部私が言う自由を叶えようとしてくれてたから。ぼんやりと曖昧な言葉である自由を、理央は考えて考えて、私にとって一番効果的なかたちにして教えてくれた。それは一度、真実を突き付けること。そして、自分の過去から、弱さから逃げないことで、まずは自由になること。

雷の轟くような言葉を受け取ってから、私にはずっと土砂降りの雨が降っていた。けれど今、黒い雲は薄らいで、僅かに空の青が見えてくる。遥か遠く、彼方の世界がまた姿を現したのだ。

「…ヒナリ、ありがとう。僕は一度、チョウジに戻ってみるよ。もう一回、ちゃんと皆と向き合ってから、ロケット団を倒す」

ヒビキくんはにかりと笑った。その笑顔が、きっとバクフーンたちの支えとなっているんだろう。私も、そうなれているんだろうか。
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