雛がつばさを伸ばすとき

黒雲と降りしきる雨の下、湖には大勢の野次馬で溢れかえっていた。ジュンサーさんの笛の音と、氾濫の危険を訴える声が聞こえるが、それでも傘の大群は動く気配を見せない。

チョウジへと舞い戻るヒビキくんの背中を見届けた後、チョウジのゲートにはたくさんの人が押し寄せ始めた。皆、ロケット団の男たちが逃げ去っていったのを見ていたらしい。ようやく開通したのを喜ぶ声が、いくつも聞こえてきた。…でも、皆が揃いも揃ってゲートを越えた先――この、いかりの湖に向かおうとしているのか。いつの間にか降り始めていた雨の中、足場も悪いのに、何故。私の足は、流されるように湖の方向へ向かっていた。

それにしても、一体何が起こっているんだろう。何がこれだけの人を悪天候の中引き留めているのだろう。そう思って人混みに近づいた時点で、私も所詮は野次馬だ。

見ようとしたところで、身長が足りなくて見えない。それならばと、耳をすませてみる。傘に雨が落ちる音に紛れながらも、聞こえてくるのは決まってひとつの単語。赤いギャラドス。…そして全てを理解した。色違い。その珍しさ故に、これほどの人が集まったのだろうと思うと、なんだか胸が痛む。ついこの前の自分のことと重ねてしまうのもあるし、私が一番忌み嫌う"奇異の視線"のひとつに私自身がなっているのが許せなかった。

ちくりと刺されたような痛みに、つい俯いたときだ。

――――――……!!アァ……ァァ…!!

…声。これは、ポケモンの声。それも、耳をつんざくような、胸を貫くような、絶叫…いや、これは悲鳴。泣き声だ。

そんな音の振動が湖の中心から、波紋のようにあたりの人や木々を振動させる。木陰で雨宿りしていたポケモンたちの慌てた鳴き声と、鳥ポケモンたちが飛び立つ音が、遅れて聞こえた。雨も、それに応えるかのように強くなり、傘を痛々しく叩きつける。人々が恐れ慄いた声をあげ、ジュンサーさんが笛を鳴らし叫び、雷が鳴り。

……、うるさい!耳を塞がずにはいられなかった。傘を脇に挟んで、両耳を塞いだ。そして一緒に、一歩、二歩と人混みから遠ざかる。瞳も閉じて、心と体が完全に人々から分離したとき、私はようやく手を外していった。

そして、もう一度目を開く。全てのものが遠い。雨も、笛も、声も、湖も、全てにエコーがかかったようだ。ピンぼけした音の世界。ふと上を見上げれば、相変わらずの黒い雲。それも遠いなあ、なんて心に浮かんだとき、突然輪郭を持った声が、やはり遠くから響いてきた。これは…湖のほうからの声だ。

『どう、なってるんだっ、一体…!おれは、おれは…!!』

…これ、さっきの悲鳴と同じ声。男性の悲痛な声。これが、もしかして赤いギャラドスの声…?一度ピントを合わせてしまえば、他の声は全てもやがかかったように聞こえない。この声を聞けば、何かが分かるかもしれない。もっと話して、もっと、もっと…。私の足は自然と湖の方角へ向かっていた。

『あいつらのせい…あいつらが仕掛けた、あの……、せいだ、っあ、あああ!』

あいつら、と首をひねったとき、再びの絶叫が湖にこだまする。それだけなら良かった。どん、という激しい轟音が、人々の甲高い叫び声と一緒に響く。りゅうのいかりを放ったようだと、ざわめきの中から聞き出した。それから、人々の会話の流れも一緒に。

このまま……じゃ……いかりの湖……チョウジ……

早く倒さなきゃ……ここ……追い出さなきゃ……

でも……誰が……戦う……言うんだ……

無理だ……暴れまわる……ギャラドス……倒そう……

倒す?追い出す?暴れまわるから?でも、暴れるのはあのギャラドスの意志ではない。「あいつら」のせい。彼は苦しんで叫びまわっているだけなのだ。何か得体の知れないものと、彼は孤独に戦っていた。なのに、倒されてしまう…?ポケモンは人間と違ってずっと丈夫だし、治癒能力も高い。けれど、あの子は今から、何も悪くないのに攻撃され、痛みをその身に受け、湖という故郷から離され、また苦しむのだ。その事実を知っているのは今この場に私だけ。彼の苦しむ声が聞こえるのは、私だけ。

「…何か、できないかな」

そう思い出すようになったのは、ヒビキくんの一件で少し勇気がついたからだろうか。ここに、私にしかできないことがある。私の行動ひとつが、この場を変えるかもしれない。悪い方向に変えてしまうかもしれない。そうなることが多かった。けれど、良い方向に変えられるかもしれない。ううん、変える。私が、やる。彼がなるだけ体も心も傷つかないように、してみせる。やってみせる。

もやを全て振り払い、全ての意識が目覚める。全ての五感から集まる情報を組み立てるのだ。まずは、聴覚。ギャラドスの叫びと人間の噂のずれ。その結果、ギャラドスは謂わば冤罪を掛けられようとしている。でも私があの人たちやジュンサーさんに彼の本当の言葉を伝えたとしても、そんなのただの戯言と受け取られるだけだ、耳も貸してくれないだろう。人間は、だめ。そうなると必然的に、視線はギャラドスのほうへと向かっていくこととなる。

…そうだ。一度倒される前に、ボールに入ってもらうのはどうだろう。それでこの混乱した状況を一度収めて、問題がなくなった頃にこの湖へと返せば良い。そうしたら、あのギャラドスは無駄に傷つけられることもないし、故郷を離れないでいられる。代償として、私は自らあの大観衆の前へ姿を現すことになるけれど。

…だいじょうぶ、だ。怖いけど、怖くても、私だってずっと変われないままじゃない!傷つくポケモンを前に、どうしてそんな私の我儘が通るだろうか!私が痛いのを我慢すれば、すべてがうまくいくんだ。もはやそれ以外の手段は考えられなくなっていた。そうするしかない、そう、しよう。

ただ問題は手段だ。一時的とはいえ、ボールに入るとは要するにゲットする、ということ。それをあのギャラドスは承諾してくれるのだろうか。でも、ただでさえ弱っているところをさらに痛めつけてゲットすることはどうしても避けたい。となると、喧騒の中に紛れる私の声をどうにかギャラドスだけに届けて、説得するしか方法はないようだ。本当は漣に乗ってもっと近寄れたらよかったけれど、今の漣はチョウジの町の影響で随分と調子が悪そうだし、それは出来ない。人目につかなさそうな湖畔まで辿り着き、叫ぶために大きく息を吸い込んだときだった。

『ヒナリちゃん』

ぽん、とボールが開く特有の音がしたかと思うと、赤い光がとある姿を形作る。水面に現れたのは、大きなラプラスの姿――漣だ。柔らかく瞳を細め、いつも通りの微笑みを浮かべる漣。無理矢理出てくるなんて、らしくない。でも、その目的は何となく勘付いてしまっていた。次に漣が言う言葉も、簡単に予測できる。きっと漣はこう言うだろう。

『ヒナリちゃん、俺を使って』

…やっぱり。雨に打たれ、ぼたぼたと雫を落としながら彼は笑う。でも、そんなことさせるわけにはいかない。

「駄目だよ、漣」

『……何で!…うっ、!』

「そんな声上げるくらい痛い思い、させたくないからだよ…!」

ふと微笑みが崩れ去る。しかしその後を見せないようにと、首を下げ、俯いたまま悶絶する漣を見ていられなくて、目を瞑りながらそう告げた。気持ちは、とても嬉しい。でも、漣が犠牲にならなきゃいけないことじゃない。私のわがままな感情のせいで、漣に苦しい思いをさせたくない。顔を逸らしたまま、モンスターボールを漣へと突き出す。ごめんね、ありがとう、なんて口にしながら。

『ヒナリちゃん!』

「私は漣が大切だから…苦しんでほしくないから!」

『俺を大切って言ってくれるなら、今ここでヒナリちゃんの役に立たせて!それが俺の、ヒナリちゃんのポケモンとしての誇りだ!!』

…大量の雨粒が、傘に当たっては弾けている。漣の一声によって、嫌なほど静かになってしまった湖畔で、私は立ち尽くしていた。でも、とか、だって、が溢れてきそうな胸の動悸が、一気に静まり返ってしまったのだ。そんな瞼の内側の世界へと、漣は静かに穏やかに、幸せそうに鳴いて、言った。

『俺は、だいじょうぶ。いくら俺が傷ついたって、ヒナリちゃんが最後に笑顔になれるなら、だいじょうぶ。安心して、ヒナリちゃん。俺は、あなたのものなんだよ』

くぅん、と優しい声をあげた漣は、その鼻先をそっと私の頬へ擦り寄せた。雨の雫の冷たさと、じぃんと染み渡る暖かさが、こわいまでに私を侵食する。また涙が押し寄せてきそうだ。また私、こんなにもひとに甘えようとしている、すぐに力を借りようとしている、そう思うけれど。でもこれは、自分の弱さから逃げるために甘えてるんじゃなくて、自分の弱さと向き合って、その弱さを受け止めた上で、あなたを必要として、頼る。逃げるんじゃない、立ち向かうために、頼る。それがきっと、支え合うということなんじゃないかな。

小首を傾げたまま微笑んでいた漣の首に、服が濡れるのも気にせず腕を回して抱きついた。お互いに、顔は見えないままがいい。信じてるよ、そう囁くと、やわらかな鳴き声が耳元を掠った。

『…ほら早く、乗って、ね?』

腕を離すと、漣はくるりと回って私に背中を向ける。けれど、どうしよう。こんな土砂降りの中傘を差さないわけにはいかないけれど、でもその土砂降りのせいで甲羅の上は随分と滑りそうだし、片手が離れるのにも無理がある。しばらく、考えた。でも決めた。傘を差したまま、俯いて黙っていた私を、漣は何も言わずに振り返って見つめている。その視線に少し笑ったあと、私は傘を閉じて、その場に置いた。途端に雨粒が私の髪や服や、靴を浸してゆく。汚れていって、なんとも愚かな私の姿。それが、満足。黒々とした空も、快晴に見えた。

『…風邪引かないように、さっさと終わらせちゃおうか』

「漣がまた無理しないようにするように、だよ」

しばらくぶりの水上は少し怖いけれど、だいじょうぶ。だって、漣だもの。私が甲羅の凹凸にしがみつくと、漣は勢い良く水上を進んでいった。

湖畔で見物をしていた人々も、荒波の中を突き進む私たちの影に気がついたらしい。なんだあれ、女の子だぞ、そんな個のないざわめきが黒い靄となって私を包む。怖い、やっぱり、怖い!下を向いて顔がばれないように、必死に恐怖と戦っていた。でも、今私が逃げてしまったら、あのギャラドスはきっと無闇に傷つけられ、悪の烙印を押されてしまうのだ。彼には何の罪もないのに。怖い、怖いけれど。昔が蘇って震え出しそうだけど、からだ全部の力が抜けて、また意識を失いそうだけど。逃げずにいるってことは、向き合うってことだから。私がずっと苦しんでいて、大嫌いなこの力と。そうすればきっと、少しは自由になれるのかな。古い記憶を受け止められるようになるのかな。そうだったら、いいのになあ…!

漣は私を気遣ってか、できるだけ揺れないようにと水面でバランスを取っているようだった。ギャラドスが暴れていたり、風が波を巻き上げたりしているのに、だ。それでもやはり時々走り抜ける激痛には耐えられないらしく、危うく波に煽られそうにはなったけれど。でも、もうすぐだ。漣は約束通り、私をギャラドスの前へと連れてきてくれた。あとは私の番だ。大きく息を吸い込んで、空へと叫んだ。

「ギャラドス!さん!あの、私あなたにお願いがあるの!聞いて!!」

ギャラドスは猛々しい咆哮を続けている。でももう一度、だ。

「ギャラドスさん!私はここにいるの!聞いて…っ!」

『ヒナリちゃん掴まって!』

直後、水面が大きな波を打つ。漣の一言で咄嗟に掴みなおしなんとか水面に落下せずに済んだけれど、この激しい轟音の中では到底私の声は届きそうにない。しかしその他の手段は思いつかないし、あまり時間をかけては漣の体力も、私の体力も持たない。水飛沫や波を交わそうと精一杯に動き回り、平行を保とうとしてくれているのだ。いくら漣でも限界は必ずある。だけど、どうしよう。焦りと不安と疲労が頂点に達して、雨の音に混じってぐるぐると渦を巻き始めたときだった。異質な声。それまでなかった声が、頭上から聞こえてきた。これは、男の人の声。男の人の声が頭上から降ってきた。

「おい!そこのラプラスに乗っている女の子!そこから離れるんだ!」

よく通るその人の声は、はっと私のからだを震えさせた。見上げて目を凝らすと、ちょうどギャラドスの目線の辺りで空を飛んでいるカイリューと、そのカイリューに乗った男性がいたのだ。誰、だろう。それに何をする気なんだろう。必死にまた、声を張り上げる。

「何で、ですか!」

「このままではこの湖が破壊されかねないし、チョウジへの影響も大きい。ギャラドスは俺が倒す。君を巻き添えにしたくないからだ」

…倒す。倒すと、言った。違うんだ、あのギャラドスは何も悪くないのに!ただ、何かの原因があってこうして暴れざるを得ないというだけなのに!誤解されたまま倒されて、どこか遠くへ離されて、なんて…私はもしかしたら過去の自分を重ね合わせているのかもしれない。誤解されたまま、誤解を解くことも許されないまま、各地を転々としていた、いつも泣いていた私の姿と。それなら尚更、ここで退くわけにはいかない。私は、彼を救わなきゃいけない。

「ほら、早く退くんだ!」

「…嫌です!このギャラドスは…っ、悪者なんかじゃない、何も悪くなんか、ない!」

「今実際この湖を破壊しようとしているのは事実だろう!」

「違う!違うんです…この子は、ただ、誰かに…誰か、誰かに…!だから、私が一度ゲットして…!」

「……。どういうことだか、話を聞かせてくれるかい」

海面を裂きながら急降下してきたカイリューの勢いに気圧されそうになりながらも、私はそのとき、初めて男性の容姿を目に入れた。疑うような、探るような視線で私を見つめるこの男性。赤髪に、黒いマント。風格のある鋭い目つき。テレビで何度も目にしたこの地方のチャンピオン"ワタル"に間違いなかった。本人も私の表情で、私が何を考えているのかを察したらしい。こくりと頷くと、落ち着いた様子で私へと問いかけた。

「君の言葉の意味が知りたい。誰かに、とはどういうことだい。それから、ゲットする、ということについても」

「あのギャラドスは、暴れたくて暴れてるんじゃないんです!」

「その根拠は?」

貫く、視線。その場しのぎの嘘では、どうにもならないような、そんな感覚がした。でも今、「彼の悲鳴が聞こえるから」という真実を言ったなら、ワタルさんはどういう反応をするだろうか。当然、信じてもらえないに決まっている。だって今まで誰にも信じてもらえなかったんだ。勇気を出して言ったところで、虚言症扱いだ。肉親にまで信じてもらえなかったのだ。

だけど、もしも、分かってもらえたなら。カイリューに視線を引きつけてもらって、ギャラドスに私の存在を気付かせることができるかもしれない。その可能性に賭けるしか、この状況を打破できる方法はないのだ。信じてもらえるかどうかの問題じゃない。私のこの力は手段。信じさせるしか、ないんだ。

漣が不意にこちらを振り向く。緊張や震えが、伝わってしまっているらしかった。笑って返そうとしたけれど、どうにも口元がうまく動いてくれない。自分で思う以上に、身体は拒絶反応を起こしているようだった。でも、そんな自分自身に負けてられない。私にできることが、ここにある。だから!

相手の双眸を、しかと捉える。その眉間がぴくりと動き、ワタルさんは一瞬慄いたようだった。そして私は、告げる。


「私には、ポケモンの言葉が、聞こえるから……!」
ALICE+