雛がつばさを伸ばすとき
全身雨に晒されて、すっかりずぶ濡れになってしまっていても、雨はさらに降り続けている。水上と空中、ワタルさんと見つめ合ったまま、一体どれだけの時間が経ったのだろう。きっと、私の感覚ほど長くはないのだと思う。けれどワタルさんの反応を待つまでの時間が、私には永遠のように思えた。
「…冗談なら、付き合う暇はないよ。さあ、ポケモンセンターに戻って、身体を温めた方が良い」
ぎりと唇を噛み締める。そう言われるのは、覚悟していた。けれど、今ここで引き下がる訳にはいかない。一刻も早く私のことを、信じさせなきゃいけない。情緒に訴えかけても駄目だ。論理的に、証明しなくちゃ。今までの考えにはなかったけれど、今ならはっと思い浮かぶ手段がひとつだけあった。踵を返そうとしていたカイリューとワタルさんに、慌てて叫ぶ。
「待って!ください!…証明をさせてください、私のこと!一度だけ…、お願いします!」
ぴたりと、遠ざかっていくカイリューの動きが止まる。…まだ、可能性は残されたようだ。距離を取りながらも再び私の元へ戻ってきたカイリューとワタルさん。この最後の機会で、確実に証明できる方法は。
「……、いいだろう。ただし、今は一刻を争う事態。急いでもらえるかい」
「はい」
胸に手を当て、深く、息を、吸い込む。吐く。それでこの心拍が変わるわけでも、緊張がなくなるわけでもないけれど。でも、これで、大丈夫だ。そんな気がした。下からじっとワタルさんを見据えて、問うた。
「…あの、ワタルさんは、そのカイリューのことを信頼していますか」
「…勿論。こいつは、ずっと俺の相棒だからな」
一瞬目をぱちくりとさせると、次の瞬間にはそれを緩ませ、ワタルさんはカイリューの頭を撫でた。…これほどの信頼関係なら、大丈夫。
「分かりました。じゃあ、カイリュー…さん。カイリューさんは、ワタルさんのこと、どう思ってますか」
一人と一匹、相棒同士が、同時に身体を固める。どう思ってる…なんて。普通のトレーナーなら、言わなくても通じ合えているものなんだろう。だからこそ聞いたのだ。言わなくても通じ合えるって、ほんとうのことなのか。私が仲介して伝えるその言葉を、ワタルさんは信頼するのかどうか。
『…やり方が、少し荒っぽいと思います。でも、これだけ一緒にいれば、慣れてしまいました。俺はこの人に、忠誠を誓っています』
「やり方が、少し荒っぽいと思います。でも、これだけ一緒にいれば、慣れてしまいました。俺はこの人に、忠誠を誓っています。…と、私には聞こえました。カイリューさん、間違いはない?」
おずおずと、頷くカイリュー。ワタルさんと同じように彼もまた、驚いているようだった。当たり前のことだろう。ポケモンだって、人間に言葉が通じるとは思っていないのだ。だけどこれで、カイリューには私のことを証明することが出来た。あと残るのは、そのマスターであるワタルさんだ。
「ワタルさん、カイリューは頷きました。カイリューを、この言葉を、信じてはもらえませんか」
ワタルさんは、私ではなく、ただカイリューを見つめていた。カイリューもその目線に気がつき、一人と一匹、相棒同士が見つめ合う。そこには、私の聞こえない会話があるような気がした。ポケモンと人間の垣根を越えた、無言の会話が、行われているような気がした。
…きっと、私のこの聴力も、同じことなのだ。カミサマから与えられたちからとか、そんな特別なものではない。そこにあるものをどう受け止めるか、それの聞こえ方がほかの人と少し異なるだけ。同じものを見て、幸せになる人もいれば悲しくなる人もいる、何も思わない人だっている。そんな、個性のひとつに入るような、些細なことなのかもしれないと、思うのだ。
ワタルさんは、顔を上げた。対話を、終えたようだった。そして無言のまま、漣と私のいる水上へと近付いてくる。…信じてもらえた!食いしばっていた口元が、途端に弧を描く。ワタルさんはそんな私を見て、浮かれている場合ではない、と一蹴した。
「…仮に、信じてみることにしよう。それで、君はどうやってこの状況に対処する気なんだい」
「…ギャラドスを、一度私がゲットします。この混乱状況を収めるのが一番だと、思います。…でも、ゲットするのに、これ以上傷つけてはあの子の命に関わります。だから私が説得して、ボールに入ってもらえるように、頼みます。そこであの、ワタルさん、協力してほしいんです…!」
私が考えた策――カイリューに視線を誘導してもらい、ギャラドスに私の存在を気づいてもらう。そこからは私の勝負だ。私が、あのギャラドスに訴えて、野生ポケモンがボールに入るという屈辱を、受け入れてもらえるように頼む。そう伝えると、ワタルさんはこくりと頷いてくれた。これで一先ず、ギャラドスがこれ以上人間によって無闇に傷つけられることはなくなった。
「…なるほど。ちなみに、あのギャラドスが暴れているのではなく、"暴れさせられている"原因は、分かるかい」
「正しいことは分からないけれど…、でも、『あいつらが仕掛けた』何かのせい、とは、さっき言っていました」
「…やはりか。何となく推測があってね。いや、それはまた後で話そう。この状況が最優先だ!行け、カイリュー!」
ワタルさんの声に合わせ、カイリューは真っ黒な空を目掛けて急上昇する。そしてギャラドスの視界で滞空したとき、ワタルさんの叫ぶ声が聞こえた。
「ギャラドス!俺は君に攻撃するつもりはない、ただ俺の飛ぶ方向を見ていてくれ!そうすれば、君を助けられるかもしれない」
『う…あ、』
ギャラドスの体力は最早限界のようだった。僅かに残った力を振り絞り、カイリューの姿を真っ赤な瞳で追いかける。しかし身体の疼きは止まらないようで、じたばたと苦痛に喘ぎ、もがき続けてはいたけれど。そのたびに起こる荒波を何とか交わしているうちに、カイリューとワタルさんが私と漣の元へ戻ってきて、くるりとその場で巡回する。苦しみを堪えたギャラドスの赤い瞳と、私の瞳が、かち合う。…今だ。落ち着いて、話そう。
「ギャラドスさん、私は、あなたの声が聞こえるよ。あなたが、自ら暴れているわけじゃないこと、私は知ってるよ。…あのね、私、あなたを助けたいの」
ギャラドスの閉じかけていた瞳が、ゆっくりとした動きで私を見据える。警戒、する体力もないようだった。朦朧とした意識の中、彼はじっと、私を見据える。
「だから、お願い。私に教えて、……あなたは、一体何に苦しめられてるの?話して、くれる?」
暫しの、沈黙。もう冷たいという感覚すら消え失せた体。私はただ、待っていた。ギャラドスが私を信じて、私に真実を伝えてくれるという希望を。ギャラドスの戸惑いと、未だ消えない苦痛が、ありのままに伝わってくる。だめか、とうつむきかけた瞬間、掠れた声が耳に直接入り込んできて、私は俯きかけた顔をばっと上げた。
『…でん、き…黒い、服を着た、人間が来てから、みんな、電気でおかしくなった、…!』
「……電気、」
『町のほうから、で、んきが、出てる…から、それを、』
息絶え絶えな声をなんとか繋ぎ合わせ、聞き取る。彼は必死だった。突然現れて、ポケモンの言葉が聞こえると言い出した得体の知れない人間に、こんなにも一生懸命、教えてくれた。状況は最悪、体力もほぼ尽きているというのに、気力だけで喋り切ったのだ。私に、最後の希望を託して。
「…ありがとう、ギャラドスさん。…あのね、私は、あなたを捕まえようとしているの」
『つかま、る…?』
「ごめんなさい。でも、それはあなたがこれ以上無闇に傷つけられないため。あなたを、助けるため。ちゃんとあなたをここに返す。誓ってもいいよ」
『…っ、たすけて、くれる…?』
「うん。私はあなたを、救いたい。…あなたは、どうしたい?」
賭け、だった。彼が嫌だと言えば、それまでだ。彼に選択の自由は授けた。でもギャラドスは、ゆっくりと首をもたげ、私の元へと額を近寄せてくれた。まるで礼をするかのようなその姿に、私の心も引き締まる。ギャラドスの、真紅のひとみ。その色が、ゆっくりと瞼によって隠される。私はその大きな姿にそっと両手で触れると、額を合わせ同じように目を閉じた。
…ありがとう。信じてくれて、ありがとう。
鞄からボールを取り出す。そして、こつん、と。赤い光の中に、赤い巨体は吸い込まれ、消えてゆく。数回手のひらの上で揺れたあと、ぱちん、と完全にボールが閉まる音。
それを確認し、ひとつ息をついた直後、私はぐるんと振り返り、近くを旋回していたワタルさんに大声で言い放った。
「ワタルさん!原因は、チョウジのほうにあります…!チョウジの、電気に関わる何かです、そして恐らく、黒服の人たち――ロケット団が関与しています!」
「そう、言っていたんだね?」
「はい。ギャラドスは、確かにそう言っていました」
冷静に顔を顰めていたワタルさんは、私の返事の勢いに少し面食らったようだった。少し、意気込みすぎていたのかもしれない。だって私の言葉を信じようとしてくれている人なんて、初めてだから。私以外の誰にも証明できないのだから。凛としなくちゃ、いけないと思った。突風が濡れた髪を揺らすのも気にせず、私はじっとワタルさんを見据え、瞳で訴えた。
「……、分かった。これから後のことは、俺に任せてほしい。君はそのギャラドスを早くポケモンセンターに連れて行くんだ。そのラプラスもだ。随分疲れているようだから」
「…お願いします!」
「最後に、君の名前を聞いてもいいかな」
名前。それは、私が、私であるということの、宣言。昔は、それすらも上手くできなかった。人見知りばかりしていたのもあるし、それに何より、怖かったから。数時間前までの私も、そうだった。私が私であることの自信がなくて、閉じこもる殻すら無くした、あまりにも無防備で傷つきやすい私だった。
でも、今はもう、違う。今はもう、自信を持って、私は私だと言える。不器用でもいい。わがままでもいい。ひとに愛されたくて、愛したくて、でも怖がりで弱虫で、そのくせ背伸びばかりしてて。それで、いいんだ。だって、それらすべてが私。ポケモンの言葉がわかるという、人と違う部分を持っている私。他人と異なる、私。これこそが私。ヒナリという、私だ。
「――…ヒナリ。私の名前は、ヒナリです!」
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