雛がつばさを伸ばすとき
「…ん、ありがと、彼方」
「どういたしまして。…えへへ、理央にお礼言われるのって、何だかくすぐったいね!」
扉の奥から聞こえてくる彼方と理央の談笑。どうやら彼方が、冷えピタを張り替えてあげたらしい。妙に嬉しそうな彼方と、ちょっとどういう意味?だなんて、冗談で怒ったふりをする理央の声。いつもの調子が、戻りつつあるみたいだ。よかったあ…と、扉越しに胸を撫で下ろす。撫で下ろした、けれど、痛みはまだ胸の中に。だって、だって、今更理央とどう話したらいいのかが分からないのだ。ああもう、いつも通りに戻りたいって思ってたのは誰よりも私なのに、どうしてこうなんだろう…。
彼方と祐月、千紘、そして他の多くのポケモンたちは、ワタルさんによってあの木が破壊された途端症状は回復したらしい。このチョウジタウンにも、平和でのどかな風景が戻ってきたというわけだ。それでも酷く体力を消耗したらしい、漣とギャラドスは今晩もジョーイさんに預けたままだし、影響の大きかった理央も部屋のベッドに横たわったままだ。とはいえ、前よりかはだいぶ楽にはなったようで、理央の意識ははっきりとしているし、会話も十分に可能なようだ。
だから私に今できることは、理央のそばにいてあげること、ただそれだけ…のはず、なんだけど。なんでもなかったみたいに、「ああ理央、元気になってよかったよー」って笑ってたらいいのか、それとも慌てて飛び込んできたふりをしたほうがいいのか。でもやっぱり、あんな仲違いしちゃったあとだし、しおらしくしていたほうがいいのかな…。というか、ここの廊下を私は何回行ったり来たりしたんだろう!いい加減、他のひとから苦情が出るくらいにはぱたぱたと足音を鳴らしすぎたと思う。…騒音で怒られないためにも、ここで勇気を出して、このドアノブをひねって、押すんだ、押す、
「ヒナリさん?」
「ひえ…っ!?」
一体、誰が想像できようか。私がドアを押そうとしたその瞬間に、扉の向こうで祐月がドアを引っ張るだなんて。当然、私は祐月の胸に衝突し、体を彼に受け止められ硬直することになる。…ああもう、最初から、全然想定外になっちゃった。
「すいません…ヒナリさん、大丈夫ですか…?」
「ゆ、ゆづき…。あの、どうしよう、」
「…大丈夫ですよ。おかげで理央くん笑ってますから、安心して喋ってきてください」
なんで私の考え事がばれているのかは分からないけど、祐月はそう言って私を一度抱き締めた。人肌の暖かさが、腕が、不安に縛られた私の心をそっとときほぐしていく。ぽんぽんと背中を叩かれたのを合図に身体を離すと、そこには肩を竦めて笑う祐月の姿があった。背中を押されて足を進めると、ベッドの横に椅子を置いて座る彼方と、理央の足元の布団に伏せて眠ってしまった千紘、そして寝そべったままジメッとした視線をこちらに向ける理央とがいた。
「ちょっと祐月、何さりげなく抱き締めちゃったりしてくれてるの?僕のヒナリなんだけどー?」
「はは、それはすみません。魔がさしましたかね」
何気なく私の名前を出して、何気なく会話をする理央と祐月。彼方はその間に、私の分の椅子も用意してくれてたみたいだった。私だけが一歩も動けず、私だけが笑っていない。…このままじゃ、いけない。踏み出さなきゃ、いけないんだ。私が覚悟を決めて前を見据えた瞬間と、理央が私を見た瞬間は、どうやら同時だったらしい。パチリと目があって、星が溢れる音がした。
「…理央、」
「うん。ヒナリ」
水色の瞳が、柔らかく細まる。まつげの先がきらきらと輝いて、綺麗だ。
「ヒナリ」
おいで、ヒナリ。
優しい声に、涙が出そうだ。真っ白なシーツの中の、真っ白な彼は、どこか包み込むような笑顔で私を待っていた。私から、行くんだ。震える足取りでベッドへと歩み寄り、彼方が用意してくれていた椅子に、恐る恐る座った。緊張か、歓喜か。膝の上で握りしめた手が、かたかたと震えている。何か言おうにも、はくはくと唇は言葉を紡ごうとしてくれないし、視界は潤んでくるし。なんでこんな風になっちゃったのかも分からないけど、ただただ胸が熱くって。そんな私を見て理央は、クスリとあどけなく笑っている。白い髪が光に溶けて、どこか儚げだった。
「ヒナリ。緊張しすぎ。相手は僕なんだよ?」
「…りっ、理央だから緊張するんだよ…!」
「ふうん。僕と話すのってそんなにドキドキするんだー。ねえ、それって恋のせい?」
「え、ええ…!?」
「理央!ち、違うよ、ヒナリはそういう意味でじゃなくて…とにかく違う、よね!?」
「あはは、ヒナリと彼方からかうのも久しぶりだ!でもヒナリ、僕に恋に落ちたらすぐに言ってね?いつでもコイビトになってあげる」
ちょっぴり妖しげないじめっ子の笑みも、何もかもがすべて、懐かしい。わたわたと慌てながらも、つい微笑んできてしまう。というかまず、彼方が私以上に慌てすぎなのだ。その様子が何とも可笑しくて。…なんだ、私、いつも通りでいられるのかも。変に考えすぎるからだめなんだ、私のバカ。
ひとしきり笑い終わったところで、ふと沈黙が現れる。…祐月が、向こうの簡易キッチンのところで料理を始めたらしい。トントントンという、小気味好い包丁の音がする。それがやけに大きく聞こえて、ああ、静かだ、という感覚が膨らんでいく。それを貫いてきたのは、ベッドの上の彼だった。
「…ヒナリ、僕はね、言わなきゃならないことがいっぱいあるよ」
ふとトーンの低くなる声。ごくり、と喉が鳴った。…大丈夫。どんな言葉だって、受け止めてみせる。理央の言葉は、私にきっと必要だ。それは表面上、私にとっては苦しいものかもしれない。けれど、その奥の奥には、限りない私への想いが――彼の強さと優しさが詰まっていること、私はもう、知ったから。彼の伏せた睫毛に乗ったひかりが、きらきらと輝いていた。
「…彼方くん、ちょっといいですか?少し手伝ってほしいことがあって」
「あっ、うん!今行くよ!」
多分、祐月が気を利かせてくれたんじゃないだろうか。彼方がばたばたと立ち去る中、扉から顔を覗かせた祐月が、大丈夫だと言うように微笑んでいた。慌ただしい声が扉越しに聞こえるようになれば、とうとう理央とふたりきりだ。目と目があって、そのまま、どきどき。
「ヒナリ」
「…うん」
ああほんとうに、なんて、やさしい声。
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