雛がつばさを伸ばすとき
「ヒナリ。よく、がんばったね、ヒナリ」
…なあんだ。もっとつらいこと言われるんだと、覚悟してたのに。なによ、頑張ったね、って。噛み締めた唇を震わせながらも、くしゃりと私が笑ったのを見て、理央もまたたおやかに笑った。
「ボールの中でね、少しだけ目が覚めたんだ。だから僕、ヒナリが頑張ってるとこ、見れたんだよ。ヒナリ、すごくかっこよかった」
やめてよ。あれからずっと自分のこと、否定されてると思ってた。だから私、やっと自分で自分のこと肯定できるようになって、それでバランス取ろうとしていたのに。いきなり背中押されたら、今度は力が釣り合わなくて、どうやって立ったらいいのかわからなくなるんだよ。
私は、笑っていたはずなのに。ぽとん。涙がひとつぶ落っこちて、自分がいちばん驚いた。
「他人に…、ロケット団やあれだけの群衆、この地方のチャンピオンに、胸を張って立ち向かったんだよ、ヒナリ。それに何よりヒナリは、ヒナリ自身に、ヒナリの中の過去に、恐怖に、立ち向かったんだ」
涙が、ふたつぶ、みつぶ。シーツに落ちて、透明な染みをつくる。
「依存されるとは違う、支えられるということも知った。自分は自分だって、大声で叫んだ。ヒナリ。それってすごく、強いことなんだよ」
とろけるような、甘い声。涙がもう、数え切れなくなるじゃないか。とうとう堪え切れなくなって、ベッドに顔を伏せて静かに泣き出した私の頭に、ちいさな手のひらが触れた。軽くて、儚くて、彼の想いの詰まった手のひら。髪に指を通して、地肌に直接その感覚が伝わってくる。また視界が揺らいで、瞼の隙間から雫が溢れかえってくる。毛布でくぐもらせていた泣き声も、もう誤魔化しようがないくらい。大きく震えだした背中も、目ざとい理央が気づかないはずなかった。とん、とん。あやすようなリズムで、背中を叩く、理央の手のひら。
「ヒナリ。だぁいじょうぶ。ヒナリはね、ちゃんと、すこーしずつ、変わってきてる。強く、なってるんだ。何も成長してないなんて、そんなはずないよ」
時計の針は、ちゃんと進んでいる。自分の足で歩き出せたんだ。ひとりでは曖昧で自信のなかったことが、理央の言葉が加わるだけで確かな事実に変わっていくのを、こころで直接感じる。一緒に、それまでの虚勢がぼろぼろ崩れ去っていくのも、感じた。そんな私を、理央はふと笑っているらしかった。悪戯っぽく、でも優しく、声が降ってくる。
「ヒナリ、顔上げて」
「や、やだ…」
「わがまま言わないの。ほら、」
ぐちゃぐちゃに嗄れた声で無理だと伝えるけれど、やっぱり理央には敵わない。おずおずと下を向いたまま顔を上げると、その頬をぎゅっと両手で挟まれ、否が応でも顔を合わさせられる。うわっびしょぬれじゃん、どんだけ泣いてんの、なんてツッコミも、遠慮なく言うあたりが理央らしい。
でも、それからはひたすら、やさしくて。…コツン。額が、ぶつかる。まつげの先まで重なり合いそうだ。開いた水色の、澄んだ色、清廉な色。空の色。
「ヒナリ」
涙、もうなんつぶめかな。
空が滲むように、彼は瞳を緩ませた。
「ヒナリ。…ヒナリ。よく、聞いて。あのね、」
きみは、今日、すこしだけ自由になれたんだ。
理央は語る。私のことを。私の自由を。
「自分の過去から、しがらみから、恐怖から。きみはそれに立ち向って、その鎖を断ち切ったんだ。他の誰のおかげでもない、きみの力で、きみは、籠を飛び出したんだ」
きみは、きみの夢に、大きな一歩を踏み出したんだよ、ヒナリ。
そっと、頬をひと撫でされたあと、ゆっくりと離される。もう、理央の手が離れても、私は呆然と固まってしまっていた。涙もさっきまでの大泣きが嘘のよう、はたと止まってしまって、私はまるで時が止まったかのように、ただ理央を見つめていた。彼もまた、その空色を真っ直ぐに私へと向けて、年に合わない慈愛に満ちた微笑みをしていた。
「じゆう、」
「きみは、きみの好きな、自由に一歩、近付いたんだ、ヒナリ。きみは、きみ自身の鎖から、自由になったんだ」
じゆう。自由。
…ああ。その言葉は、無条件に私の心を晴れ渡らせる。雲の作った影は消え、太陽の光が直接私に降り注ぐ。今までよりも光は肌に刺さる。見上げようにも眩しくて目を凝らしてしまう。けれど、それでも。その痛みや果てしない大きさを享受しながら、私はまた歩むのだ。さっきまで雲に覆われていた、今は太陽に照らされている、遥か彼方の世界へ向かって。一歩ずつ、一歩ずつ。振り返った先の足跡を、否定することなく。足跡の続きを、これからも刻んでゆくのだろう。
今日もまた、その一歩を刻んだ。でも、これは、大きな一歩だ。私は私を、誇れるようになったのだから。
もう一度、その言葉を脳内で復唱した途端、なぜだろう、またぼたぼたと大粒の涙が溢れ出してきてしまった。拭うこともせずただひたすらシーツに雫を落とし続ける私に、理央もぎょっと瞳を丸くしているし。それでもまた声にならない声をあげて、ひくひくと啜り上げながら泣き続ける。ああもう、いつまで経っても私は泣き虫!考えられることはそれくらいが精一杯で、頭が、こころが、想いで溢れている。やがては我慢できなくなって、私は声をあげて泣き出してしまった。
「…っ、りお、…りお、りおお、うあぁ…!」
「あーもう!ヒナリは全く、しょーがないんだから。おいで!ぎゅってしてあげる」
ニカリと屈託無く笑う理央が、そう言って両手を伸ばしてきたから。躊躇なんてどこにもなかった。真っ直ぐ、彼の中へ飛び込んでいった。まあでもちいさな身体は私の勢いを受け止めきれず、ふたりしてベッドに倒れこむことになってしまったけれど。しばらくあはは、と声を上げて笑っていた理央だけど、やがて背中に細い腕が回った。
「ヒナリ。…僕はね。ヒナリが、好きだよ」
それはあまりにも唐突な言葉で、頭はふわふわとその文字だけをなぞるのみ。そんな私に、理央はくすりと、まるで子どもを見るみたいに笑う。だけど、腕の力が強まってからだとからだが隙間なく寄り添うと、ああ、彼は真剣だ、と感じた。
「はじめはこんなに好きになるつもりなかったのに、いつのまにか、自分がどうなってもいいって思えるくらい、好きになってた。初めてだよ、自分より、きみのしあわせのほうが大事って思えるようになるなんて。きっと、これが本当の恋なんだね」
理央の表情は、見えない。倒れこんだまま、声だけで、その表情を想像する。…きっとすこし、顔が赤い。
「だから、ヒナリのためなら、僕はヒナリの敵にもなれるんだ。あはは、おかしなセリフでしょ?でもね、本当。ヒナリが強くなるために、嫌われる奴が必要だったなら、僕は喜んでその役を買って出るよ。だって、ヒナリが、ヒナリの夢に近付けるんだ。大好きなきみが、しあわせになるんだ」
「…りお、」
「…好きだよ、ヒナリ。どこまでも甘ちゃんで、世間知らずで、馬鹿で愚かなきみが好きだよ。夢みたいなことばっか言って、現実に触れるたびにびーびー泣いて、でも最後には這い上がってくる、泥臭いきみが好きだよ。どこまでも純粋で傷つきやすくって、まっすぐなきみが、好きだよ。そんなきみだから、ぼくは、きみのためなら…って、思ったんだよ」
半ば押し倒すかたちになっていた上体を、ゆっくりと起こす。水色の髪の隙間から覗く瞳は、笑っていた。やわらかく愛おしく、私をじっと見つめていて、そこには何の嘘もない。…信じられないよ、どうしてそこまで、私を想えるの。でも、理央が言うってことは、ほんとうなんだろう。ほんとうに、私のしあわせのためなら、どうなったって構わないって、本気で思ってるんだろう。それはとても、怖いことであるはずなのに。
「ねえ、ヒナリ。大好き」
濡れた頬に触れる手のひら。ちいさくてはかないその感触は、触れる、というのでもことばが強すぎるくらい。もっと繊細で、頼りない――きっと、彼のこころ。強くて正しくて、凛とした彼の理性ではなく、これはこころ。脆くて、でも愛に満ちた、もうひとつの存在。
今まで気づいてあげられなくてごめんね。でもこれからは、あなたのことも大切にするから。その手をそっと、強く、包み込んだ。ぎゅっと目を閉じると、雫がいくつも手の甲に乗っかった。
「りお、…りお、」
「なあに、ヒナリ」
「…私、理央のこと、嫌いになったことなんか、ないから…っ!わたし、私はっ、理央がっ、」
「僕が、"好き"?」
すっと、彼の声色が変わった気がした。どこか、かなしそうに、いつくしむような、…諦めたような、そんな声。眉を下げて、少し困ったような笑顔。誰かに似ていると思ったら、漣だ。これは、我慢をしているひとの仕草だ。
好きの、意味。……分かってる。あなたのきもちを、私は、知ってるよ。あなたがほんとうに欲しいもの――決して真面目な顔では言えないんだろうけど、でも、何度も聞かせてもらってる。これでもかってくらいに、私、あなたの想いを知ってる…!
なのに、ごめんね。ごめんね、私は、あなたが、理央が、
「…"すき"……っ!だい、すき…!」
ごめん、ね…!私の、"好き"なひとは、きっと…、きっと――。
その手に縋り付いたまま泣き崩れる私を、理央はもう一度引き寄せて抱き締めてくれた。細い躰の中にある心臓は、とくん、とくん、と、まるでこうなることを知っていたかのように平然と、かなしそうに、音を鳴らしている。やっぱり、彼は私の答えを知っていたんだろう。知っていて、尋ねたのだ。また、自分が傷付くようなことを、自分から。…そうさせたのは、彼の頭脳なのか、それとも、このこころなのか。
「…いいよ。ヒナリ。それで、いいんだよ…」
わからない。けれど、理央が私の額に口付けたその感覚が、とてもやさしく、しあわせそうであったことは、たしかだった。
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