蘇る薫のいぶせきを

翌朝。小雨の降りしきる、誰もいない朝のみずうみ。人数分の傘が咲いているくらいしか、ものがない。植物に浄化された、澄んだ空気を吸い込んで、私はそのボールを放った。…ポケモンセンターでは、やはり大勢の人間がいるから思うように話せなかったけれど、ここでなら大丈夫だ。

「…ギャラドスさん、」

雨に打たれる真っ赤な色彩が、私たちの視界を埋め尽くす。改めて目の前にすると、ほんとうに威厳のあるポケモンだと思う。そのポケモンが、自ら私と目を合わせると、ゆっくりと頭を垂れたのである。…私も、きちんとした態度を取らなくてはならないと思った。

『ありがとう、ござい、ます。…あなたのことは、忘れません』

「いえ、…私も、忘れられない、よ。ありがとう、ギャラドスさん」

厳めしい顔つきが、ふと緩む。張っていた髭がへにゃりと曲がって、ちょっと可愛いなとさえ思った。だめだなあ、保護のためのゲットだったとはいえ、名残惜しいものが少しずつ胸の中に湧いてきてしまう。でも、一緒に来ない?とは、尋ねないことにしていた。もう人間たちの中へ彼を連れて行きたくはなかったのだ。やさしい、彼の仲間のポケモンたちの中で平穏に暮らしてほしい、今思うことはただそれだけ。

そういえば、彼方たちは…?一歩後ろに下がっていた彼らを覗き見ると、彼らは皆揃いも揃って、考え事をするような難しい表情を浮かべていた。顎に手を添えたり、腕を組んだりと思い思いに、だけれど。一番近くにいた彼方の肩をちょんちょんと叩いて、尋ねてみる。

「どうしたの…?何か、変?」

「ヒナリ、…うん。おかしいんだ、このギャラドス。レベルが全然足りてない…」

レベル?どうして急に、レベルの話?彼方たちが前言っていたことには、ポケモンたちはお互いにその雰囲気や面持ちで、相手のレベルをなんとなく判断しているらしい。ちなみに人間たちには不可能らしく、なのでポケモン図鑑やポケナビといった機械を利用している人は、この世界には大勢いる。ちなみに私が持っているポケギアにそういった機能はないから、彼方たち任せになってしまっているのだけれど。

だから余計にわからなくて首を捻っていると、理央がそっと助け舟を出してくれた。

「彼方の言葉が足りなかったね。要するに、コイキングが進化するレベルに、このギャラドスは足りてないってことだよ」

「じゃあどうして、」

もう一度ギャラドスを見上げた瞬間、はっと目が合う。真っ赤な瞳が、悲しげに揺らいでいた。…沈黙が、続く。だけどやがて、見上げ疲れた私を気遣ってだろうか。身体を水中に沈め眼線を私のところまで下げ、彼はただ静かに、私の言葉を待っていた。

「…ギャラドス、さんは、どうして進化できたの…?」

『……』

「あ、あの、答えたくなかったら、」

『いいえ。…あなたには、知っておいてほしい、から』

視線を逸らしたままそう呟いたかと思うと、不意に覚悟がついたらしい。からだをしゃんと伸ばし、ギャラドスは語り出す。全ての経緯を。

『――おれは、色違いでも何でもない、普通のコイキングでした』

「……?じゃあどうして、」

『ぜんぶ、あの電波が流れ出したときでした。なぜ、おれだけだったのかはわかんないけど…。身体が、急に大きくなりだして。それである日突然おれは、覚悟もレベルも何もないまま、ギャラドスに進化したんです。…だから赤色なんじゃないかと。赤色は、コイキングの身体の赤なんだと、思います、未熟の、あかいろ…』

ギャラドスは、どこか自嘲するかのように言って、微かに笑った。彼の赤は、他の誰でもないロケット団のせい、人間のせいなのだ。それに群がって彼を傷つけようとしたのもまた人間。彼は、人間に全てを狂わされてしまったのだ。もう、自分が人間であることが恥ずかしい。なんて愚かなんだろう。込み上げてくるのは謝罪の念だった。私は湖畔へと一歩近寄ると、その頬に触れた。

「…ごめんなさい、私は、人間で、あなたを…」

『…たしかにおれは、人間に全てを狂わされました。でも、あなたが起こした狂いは、おれを救ってくれた。おかげでおれは、今もこうしてふるさとに帰ってこられた…、ありがとうございました』

…そう言われたら、何も言えなくなってしまうじゃないか。ポケモンから見たら人間なんて皆一緒じゃないかなあ、と思っていたし、実際そう考えるポケモンを昔に何回も見てきた。けれど、あなたは"私"を見てくれるのね。胸が詰まるような苦しさと感謝で、私はただ無言でその頬を撫で続けていた。

ふ、と顔を上げると、湖面にはたくさんの赤い姿。コイキングだ。きっと、彼の帰りを待っていたのだろう。苦痛を乗り越えた彼を癒してくれるのは、きっと私じゃない、このコイキングたちだ。寂しいけれど、お別れの時間かなあ、なんて。真新しいボールを取り出し、いざ壊してもらおうと差しだそうとしたとき、だった。

「ヒナリちゃん」

突然の漣の声に振り向こうとしたところを、彼は私の手を引き湖畔から遠ざけた。気が付けば後ろから抱き寄せられる形になっていて、前には彼方の背中。理央や千紘、祐月もいつの間にか私を取り囲むような、いわば警戒態勢に入っていて。どうしたの、何があったの、と呟きかけた口は漣の手に抑えられ、しっ、と耳元で囁かれた。仕方なく湖の光景に視線を戻したとき、私はようやくその状況を理解した。何か、ただならぬ様相であった。コイキングたちの視線が皆、ギャラドスへと向けられている。最初は歓迎して、出迎えているのだと思った。でもそれは違う。…私がもしポケモンの言葉を解していなかったとしても分かるほどの、何か、思念の塊がそこにあった。それは、憎悪。突き刺すような、睨むような大量の視線が、コイキングの虚ろな目から放たれている。ぞくりと身体が麻痺するような感覚。…不気味。

ぴちゃり…、静かに、水が跳ねる音。一匹のコイキングが、ギャラドスの目の前に現れる。巨大な龍と、一匹の魚。その体格差と真逆の上下関係は、一目で明らかだった。そして、コイキングは語り出す。


『…昨日、お前のせいで、仲間が一匹、死んだ』


しん、だ?

あたまがなにも、動かなくなった。

『お前が、暴れたから。お前の身体に叩きつけられて、…あの子はまだ生まれたばかりで、体力もなくて、死んだ』

『お前のせいだ。お前のせいで、死んだ』

『お前が暴れなかったら、あの子は死ななかった』

『お前が進化しなかったら、あの子は死ななかった』

『お前が存在しなかったら、あの子は死ななかった』

『お前が生まれなかったら、あの子は死ななかった』

お前が、お前が。ぽつりぽつりと呟く声は湖中に広がる。ノイズのように、お前が、お前が、と。その的である彼は、一体何を思う。未熟なままである証の赤色を纏って、何を思う。

「し、ぬ…?」

囁きのような、そんな声が不意にすぐ傍から聞こえた。千紘の声だった。

『なあ、一体、どうしてくれるんだ』

『どうやっても、あの子は帰ってこないのに』

「かえって、こない」

『どう償うつもりなんだ』

『…消えてくれよ』

『そうだ、消えてくれ』

『消えてくれ、頼むから、消えてくれ』

『誰かを殺したやつと一緒になんかいられない』

「一緒に、いられ、ない?」

『消えてくれ。そうじゃないと、俺達までおかしくなりそうだ』

『頼む、頼む、消えてくれ』

「きえなくちゃ、いけない?」

…ぴちぴち、きらきら。可愛らしく水の跳ねる音。それも大量になれば、こんなにも恐ろしいものになるなんて、誰が思うだろう。コイキングたちは皆、同じ色をした巨体に向かって、そのからだを叩きつけるように、はねたのだ。
それが彼らの出来る唯一の行動だから。
しかしなにもおこらない。
彼らの怒りを表す唯一の行動だから。
しかしなにもおこらない。
憎しみを表せる唯一の行動だから。
しかしなにもおこらない。
敵意を表せる唯一の行動だから。
しかしなにもおこらない。
憎悪を表す唯一の行動だから。
しかしなにもおこらない。
憤を表す唯一の行動だから。
しかしなにもおこらない。
しかしなにもおこらない。
しかしなにもおこらない。
しかしなにもおこらない。

ギャラドスは、何も動かなかった。彼は全てを理解していた。微弱な、攻撃にもならない攻撃は、彼の感情を、丁寧に、丁寧に、殺した。
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